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【インタビュー:多文化をチカラに㉙】宮本ひかりさん(主婦)2024.01.10 | 

My Eyes Tokyoの協力のもと、日本で活躍する外国にルーツを持つ方々へのインタビューを紹介していきます。
https://www.myeyestokyo.jp/62065


日本も、私の夫も世界でNo.1。この国に、そして彼に出会えたのは、長年頑張ってきた私への神様からの祝福だと思います。

誠に遅ればせながら、謹賀新年!今年も素敵な人たちの素敵なストーリーをお送りして参りたく思います。どうぞよろしくお願いいたします。

さて2024年最初にご紹介するのは、モンゴル出身の女性です。今から約10年前、My Eyes Tokyoが「日本外国特派員協会」に会員として所属していた頃、そこで月1回開かれていた懇親会で出会ったジャーナリスト。ジョークをたくさん飛ばす明るい女性でしたが、その後大変失礼ながら連絡を取らずにいました。

そして勇気をふり絞って昨年(2023年)SNS経由で連絡を取ったところ、シンガポール在住とのこと。「すごい、シンガポール特派員として活躍しているのか・・・」と勝手に思っていましたが、年の瀬に東京郊外で10年ぶりの再会を果たした時、年月を重ねてやや落ち着きを見せた彼女からは、いわゆる”セレブ”とは違う、その明るさの裏に潜んでいた悲喜こもごもの半生を聞くことになったのです。

世界中どこでも生きていける
私は現在、日本のメーカーに勤める夫の赴任先のシンガポールに住んでいます。今は私だけ一時的に日本に帰国し、都内に住む両親の面倒を見ています。

私はモンゴルで生まれ育ちましたが、日本の名前を持っています。それは私が日本に帰化し、日本国籍を持っているから。そう言うと、この記事をお読みいただいている皆さんの中には「日本人と結婚したから帰化したんだね」とか「国籍が欲しいから日本人と結婚したんだ」などと思う方もいらっしゃるかもしれません。でも実際は全然違います。私が日本国籍を取得したのは、日本人の夫と出会うより遥か前のことです。

さらに言えば、私はここ(インタビュー場所)のすぐそばにマンションの一室を持っていますが、それも夫と出会う前に、自力でローンを組んで購入したもの。家族のために苦労を重ねてきた両親を日本に呼び寄せ、住んでもらうためでした。

本当の結婚というのは、自分の利益のためでは無く、心から相手を愛するからこそするもの – 今思えば、独身時代に日本に帰化したり、マンションの一室を購入したりしたのは、それを証明するためだったのかもしれません。また今年4月(※)に夫とシンガポールに移住しましたが、それに対する抵抗は全くありませんでした。私はモンゴルでずっと貧乏暮らしを強いられていたから、人々が生活している場所である限り、世界中どこでも生きていけるという自負があったのです。
※インタビューは2023年12月下旬に実施。

きょうだいの未来を背負い日本へ
私は5人きょうだいの長女として、モンゴルの首都ウランバートルで生まれました。1つの部屋に両親を合わせた7人が暮らすような、決して裕福とは言えない家庭で育った私は、ある日偶然”日本”に出会いました。1994年ごろ、モンゴルで『東京ラブストーリー』が放送され、偶然そのドラマを見た私は「何てきれいな国なんだろう」と溜息。登場する女性たちはとても可愛く、男性たちはすごくカッコいい。モンゴル語で吹き替えされていましたが、それを見て日本や日本語に強く興味を持ったのです。

日本語教室に通いたいと思いましたが、経済的余裕が無い。でも一方で私はどうしても大学には行きたかった。モンゴル、中でもウランバートルには大学がたくさんあるため、高校を卒業した人たちのほとんどが大学に行きます。大学で日本語を学びたいと思った私は、両親に深く頭を下げ「卒業したら学費を全部返します。だから大学に行かせてください!」と懇願しました。

こうして私は、内モンゴル出身の人が学長を務め、日本人の教授が多く在籍する、日本語教育で評判が良い大学に入学しました。ちなみに学費は、最初の1年間はモンゴルの田舎から出てきたある兄弟に実家の小さな台所を貸して捻出。2年目以降は、キリスト教関係の教育支援機関が、返済不要の奨学金を出してくれました。

日本語を学びたいと思いながらも、その大学に新しく設けられたジャーナリズム学科へ。私が子どもの頃、母が新聞記事を私に読み聞かせして、そのたびに「あなたも社会の裏側を明らかにする仕事に就きなさい」と言われたことが記憶に残っていたのです。大学4年生の頃には数か月間モンゴルの新聞社でインターンを経験。「大学卒業後はここで働いても良いよ」と会社からも言われました。しかしモンゴルでは、きょうだいで一番年上の人が妹や弟の面倒を見るという風習があります。それまで頑張って働いてきた両親に休んでもらおうと、4人の妹や弟の学費を私が稼ぐことを決意。それを実現させるため、私はもっとお金を得られる場所に行く必要がありました。また、純粋に日本語の環境に身を置くことでさらに日本語力を上げたいと思いました。これらを実現させるため、私は日本へと向かいました。

日本は外国じゃない
2005年9月の来日後、日本語教育で定評があり、かつ学費の安い拓殖大学の日本語学校に入学。そこで1年半日本語を学びました。その間、友人だったモンゴル出身のお相撲さんからの紹介で、私は日本でのモンゴル音楽のイベントや、日本の宝塚歌劇団のOGによるモンゴル公演などを行う会社で通訳や翻訳のアルバイトに従事。学校での課程を終えた後も、私はコンビニなどでアルバイトをしながらその会社での仕事を続け、NHKの番組制作などにモンゴル語通訳として携わりしました。

そして2013年ごろ、私は日本に帰化しました。初めて日本に来た頃は、私はここに長く住むことを想像していませんでした。その証拠に、私はそれまで永住権を持たず、就労ビザの更新を繰り返していました。しかし、やがて日本が私にとって外国だと思えなくなってきたのです。

ところがモンゴル関係の会社が倒産。その後2012年3月、私がモンゴルに里帰りをした際、日本に戻る機内で偶然にも席が隣り合わせになった現地メディアの幹部に、私は伝えたのです。「東日本大震災が起きた時、あたかも”東京は滅んでしまった”と人々に思われかねない情報がモンゴルに広がりました。だから私が記事を書き、正しい情報を発信したいです」と。

こうして私は、そのメディアの東京特派員として働き始めました。ただし正社員では無く、しかも支払われる給与はモンゴルでの平均金額に合わせたものだったため、日本で生活するには不十分。弟たちや妹たちへのお菓子代に消えていきました。しかも特派員協会の会費は私が負担していたのです。それでも私はジャーナリストとしての誇りを持って、この仕事を続けていきたいと思いました。

ついに手に入れた”自由”
そんな折、モンゴルにいた母が病で倒れました。集中治療室に運び込まれ、幸い一命は取り留めました。その状況を、私がかつて働いていたモンゴル関係の会社の社長さんが、ある人に伝えました。借金などの債務を整理する司法書士さんで、その人が私を雇ってくださったのです。

固定給に加え、営業成績に応じて歩合給が支払われるという給与体制。私はようやく、安定した仕事に就き、決して安くはないお給料を得られるようになりました。母を私の扶養の下に入れ、日本に呼び寄せました。

私は母と一緒に住む場所を探しました。過去に”外国人”であることを理由に – それは帰化した後も続きましたが – 部屋探しで断られ続けた経験がありました。その時は、世の中の冷たさを痛感しましたね。一人暮らしの部屋を借りるだけでも断られたのだから、私と病気の母、しかもその人たちが外国人や外国出身となれば、不動産屋さんにとっては部屋を貸したくない条件が全て整っています。

「いつか私も年を取り、健康を維持できなくなる日がくるかもしれない。そんな時、自分の家を持っていなければ、この国では生きていけなくなるだろう」- そう思った私は、物件の購入を決意しました。透析を受ける必要がある母のことを考えれば、病院のそばにあることが絶対条件。しかも都内で、手頃な価格で・・・と条件を絞り込み、マンションの一室をローンを組んで購入しました。

そして当時独身だった三番目の妹や一番上の弟も、母のそばにいようと日本に来ました。また父も、モンゴルと日本を行き来するように。でも一度部屋を買ってしまえば、そこに住む人の数は不動産屋さんから問われないはず・・・それも、私が購入に踏み切った理由でした。それが出来たのも、私が安定して収入を得られていたから。しかも営業成績が良く、最も給与額が高かった月の給与明細を不動産会社に提示して、ローンの申請が通ったのです。「神様が祝福してくれているんだ」と感じました。

私はようやく、精神的な自由を得た気がしました。

自分の家族のために生きてゆく
一方、モンゴルのメディアの東京特派員としての仕事を並行して続けることは難しくなり、ジャーナリストとしての活動を断念。司法書士事務所での仕事に集中しました。しかし母が倒れ、その面倒を見るという経験を通じて、家庭の大切さを痛感させられた私は「4人の妹や弟が独り立ちするまで独身を貫く」という意志を封印しようと考えたのです。

ちょうどその頃、私は内モンゴルで開かれた友人の結婚式に招待されました。そこで私は、新郎の友人として出席していた日本人男性に出会います。お互いに好印象を抱いた私たちは、1年間の交際を経て2019年5月に結婚。母や妹、弟が住む家の近くに、別に部屋を借りて住むようになりました。

「さあ、家事と両立させながら仕事をしていこう!」と考えた矢先、世界中を襲ったコロナウィルスにより債務整理の営業活動が続けられなくなり、2020年5月に司法書士事務所からの退社を余儀なくされました。

ただ私は、それをマイナスには受け止めていません。それと前後して、モンゴル出身者向けの法廷や警察での通訳の仕事に就いたし、当時はプライベートで忙しくしていたため、逆にそのための時間を確保できたとポジティブに捉えています。さらに言えば、リストラをされたのは「他の人たちのためにお金を稼ぐことから、夫と息子という私自身の家族のために時間を使いなさい」というサインだったのだと、私は感じています。

宮本さんにとって、東京って何ですか?
一人で住んでいても孤独を感じない街だと思います。
だから私は長い間、独身で過ごしてこれたのかもしれません。

そういう意味で”危ない街”です(笑)

宮本さんにとって、日本って何ですか?
”命の恩人”です。
モンゴルで倒れ集中治療室に入った母は、その先の治療を日本で受け、命が救われました。妹や弟も日本で成長したし、そしてもちろん私自身も日本で経験を積み、日本で家庭を築くことができました。日本人や日本政府の、貧しい人たちや外国人への優しさを感じます。

ただそれは、私がシンガポールでの生活を経験したから感じることかもしれません。私が母国以外に住んだことがある国が日本だけだったので、その環境を当たり前のものだと感じていました。でもシンガポールに住み始めてから、日本の良さに改めて気づいたのです。

それは何と言っても四季があること。「これから暖かくなる」「これから寒くなる」という季節の変化に毎年ドキドキします。さらに日本人のサービス精神や運転マナーの良さ、日本の清潔さ・・・全ての点において、世界でNo.1の国ではないかとすら思います。そして私が出会い結婚した日本人の夫も、世界でNo.1の人。彼に出会えたのも、神様からの祝福だと思っています。

私は、日本に対して感謝の気持ちしかありません。いつか再び社会に戻り、たくさん稼いでたくさん税金を払い、ますます日本が良い国になるよう貢献したい。私だけでなく、私の息子にもそうなって欲しいと思います。

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