HOME >  オンラインセミナー「東アジアを構築する新しい人間観」の第2弾を実施しました

オンラインセミナー「東アジアを構築する新しい人間観」の第2弾を実施しました2021.05.23 | 

5月8日の午後7時より、京都大学教授の小倉紀蔵先生をお招きし、「東アジアを構築する新しい人間観―違いを認め合って『まとまり』をつくることができるかー」というテーマで講演をいただきました。
3月27日に同教授のオンラインセミナーを開催した後、参加者からより詳細の内容を知りたいという声が多数寄せられ、第二回を開催する運びとなりました。東アジア諸国のアイデンティティの違いや、「生命観」の違い、小倉先生が提唱されている「多重主体主義」などについて詳しい内容が語られました。その中から、講演の要点を紹介します。
当日の動画は、下記のYouTubeにありますので、ぜひご覧ください。

―朝鮮王朝化する日本
■コロナ禍の日本の混迷。日本社会のインフラ、システムを作る人たちが何も進めていなかった。
■理由は色々あるが、最も大きな理由は憲法に書かれてある「尊厳」という概念。(後ほど言及)
■朝鮮王朝化する日本、とは。中国で作ったシステム、朱子学思想が250年くらいかけて
定着、固定化。完璧な前例主義社会になった。少しの間違いも許容しない官僚統治社会。
■朝鮮の人たちが無能ゆえでなく、ものすごく有能だった故に官僚システムが完成。未曾有のこと、不測の事態に対応できなくなった。日本は今そうなっている。

―小倉氏の東アジアを見る立場・・・「間」に命が現れる
■「右左翼」(小倉先生の造語)という立場。とてつもない悪態、とてつもない理不尽な言葉以外は誰かが何かを言ったということに関してはそれなりの理屈がある(という立場)。
■中庸という立場をとる。中国哲学の「中庸」という概念は、ただの真ん中という意味ではなく、全部を包摂し、時々刻々のバランスを考えていく。いわば「ゾーン」みたいなもの。それに官僚の思想である朱子学や儒教が加わる。三権分立がなく、官僚が司法や裁判もやる中で、どういう判断をすれば全てにとって良いのかを判断してきた歴史がある。
■朝鮮王朝末期化する日本―コロナのワクチン接種の文章、手続きの完璧さ。さながら朝鮮王朝。日本の植民地だった台湾と韓国がコロナ対策をうまくやっている。

―東アジア諸国のアイデンティティの違い
■東アジア諸国は自国の戦略に有利になるように「近代」と「対抗近代(近代に反対する立場)」を使い分けている。
■対抗近代側であるとして、近代側(アメリカ、ヨーロッパ、日本)に対抗して発展・開発を重ねてきた中国が、経済力をつけ、アメリカに対抗できるようになった途端に自分達は大国だと言い始めた。このように、国家間において自分たちが有利になるような国益をめぐる戦略の戦いである。
■欧米と日本以外の世界にとっては近代とは怨嗟の近代であり、日本は近代側にいたということを日本人ははっきりと認識したほうが良い。すべての地域・国家が持つ、「近代」に対する憧れ、欲望を見る必要があるし、近代から受けた恩恵を認識しないと、近代をやりたい国々に対するご都合主義になってしまう。

―現代のグローバルな問題系をどのように捉えていったら良いか
■破壊、蕩尽、差別、搾取、収奪、戦争、暴力、気候変動などがある。「地球倫理」というところに到達する必要がある。しかし、結局何が善で、何が悪なのかがわからない。
■資本主義 vs 社会主義共産主義、植民地主義 vs 内発的発展、普遍主義 vs 多様性・特殊論、原理主義 vs 相対主義、等。二項対立にして、どちらが良くてどちらが悪い、という
考え自体がそもそも間違っている。どちらかに偏ると息苦しく生きることになる。

―「人間とは何か」「社会とは何か」「生命とは何か」といった根底からの考察が必要
■東アジアは21世紀の世界を考える上での思想の宝庫である。すなわち、開発されてない、利用されてない思想が豊富にある。西洋では、死刑問題や貧困問題を考える際に思想が応用されているが、東アジアでは思想が純粋な形で残っていることが多い。
■西洋も「哲学は西洋」という考えから離れる必要がある、という方向性に進んでいるが、闇雲に反西洋を唱えていても問題は解決されない。創造的な新しい発想ができるかがポイントである。
■一例として、「尊厳=dignity」という概念を中心に西洋や東アジア諸国の立場の違いを考察することができる。戦後、世界人権宣言、国連憲章、世界人権宣言、ドイツ憲法に取り入れられた。スイス憲法では被造物の尊厳が扱われることになり、尊厳概念に対する難問が突きつけられた。
■日本国憲法は諸国の憲法の中で最も早い段階で個人の尊厳というものが謳われただけでなく、法律レベルでも女性の尊厳、高齢者の尊厳、障害者の尊厳という概念を世界でいち早く打ち出した。}

東アジア諸国の「尊厳」概念について語る小倉氏

東アジア諸国の「尊厳」概念について語る小倉氏

―東アジア諸国のアイデンティティ「尊厳」概念について
■中国では、「人格の尊厳」韓国では、「人間の尊厳」(大韓民国憲法第10条:すべての国民は人間としての尊厳と価値を持ち幸福を追求する権利を持つ)。北朝鮮では、「最高尊厳」。日本では、「個人の尊厳」
■ここで、日本国憲法は人間の尊厳という言葉を使ってない(24条の家族についての条項に個人の尊厳という言葉があるのみ)。一方で、韓国憲法は人間の尊厳と表記されている。
■個人の「尊重」と「尊厳」は全く違う概念であるが、日本国憲法では一緒くたにされて使用されている。憲法学の根幹に関わることではないか。
■韓国は人間の尊厳、と言う言葉が入っており、ドイツ同様、世界人権宣言、国連憲章を引き継いでいる。それに対して、日本はあくまでも個人が徹底的に重要である。
■コロナ対策においても日本は個人の私的な権利などを制限することはできない一方で、韓国は個人の権利はものすごく侵害されているが、すべての国民は人間としての尊厳と価値を持つ、というところからの対策が行われている。

―群島文明と大陸文明、という区分からの考察
■政治学、安全保障、経済上の「大陸国家」「海洋国家」とは違い、「生命」に対する感覚の違いによって「大陸」と「群島」と言う区分で考察をすることができる。「大陸」は演繹的、観念論が強く、「群島」は経験論が強い。大陸文明ではシャーマニズムが発達し、群島文明ではアニミズムが発展する。シャーマニズムは超越的、普遍的で、アニミズムは水平的、帰納的である。
■孔子の『論語』は、もともとは普遍性、演繹的、シャーマニズム的要素のない書物だが、
中国的な大陸文明によって、超越的、普遍的なことを言っているように解釈されている。
しかしそれは、帝国を築き上げる上での統治の理論として解釈されただけで、元々は帰納的でアニミズム的な書物である。

―「第三の生命」について。 生命感覚のリアリティはどこにあるのか
■生命には三つの種類があるのではないか。すなわち、〈第一の生命〉は生物学的生命、肉体的生命であり、〈第二の生命〉は霊的生命である。そして、〈第三の生命〉=美的生命、愛と呼ばれるものである。
■肉体的な生命〈第一の生命〉でなく、超越して包括する霊的な生命〈第二の生命〉。仏教では阿弥陀信仰、キリスト教や世界の思想においても存在する。
■それとは違う第三の生命。間主観的であり、偶発的であり、間的な生命。普通は命とは言わず、例えば、もののあはれ、美、アウラ、オーラのことを言う。特に日本のような文明を持っているところではそれをはっきりと命であると考えて良い。
■孔子の言った仁は〈第三の生命〉に属する。偶発的に人と人、人と言葉、人と物の間に立ち現れるもの。しかしそれが、朱子学による解釈だと仁が聖人君子の道徳性、絶対的なものになってしまう。

多重的主体性を尊重することの大切さを強調する小倉氏

多重的主体性を尊重することの大切さを強調する小倉氏

―多重主体主義について
■日韓関係、歴史認識、それぞれの陣営で様々な言説が飛び交っている。あたかも自分が歴史を見てきたかのように語られているが、それは暴力である。
■ただ、何らかの形で歴史を認識しないとならない。歴史は認識してもしなくても、結局は歴史を書くこと自体が暴力である。しかし、書かないことも暴力である。
■それではどうするか。新しい個人の捉え方「多重主体主義」で人間を捉えることが大切ではないか。
■「多重主体主義」とは、自分が関係したありとあらゆる人、あらゆるものの主体性が入り込んでいるということ。
■例えば、一つのチョコレートがある。企画した人、原材料をどこかで植えて収穫した人、パッケージを考えたデザイナー、物流に乗せて近所のコンビニまで運んできた人。。。そういう人の主体性が全部入り込んでいるという話である。
■歴史認識はなぜ暴力か。例えば伊藤博文は侵略者とか安重根は暗殺者とかテロリストだと
決めつけることで、その人の多重的な主体性を無視するからである。
■逆に、多重的な主体性を尊重することで、日本人と中国人、日本人と韓国人を截然と違うものとして分離せず重なり合う部分を見出せる。

質疑応答の時間でもさらに深い議論が展開しました。
その内容は下記の動画でぜひご覧ください。

このページのトップへ