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「北朝鮮帰国事業(1959)~国際政治による人道主義の行方〜」オンラインセミナーを開催しました2021.10.10 | 

9月26日に津田塾大学国際関係学科教授の朴正鎮教授をお招きし、「北朝鮮帰国事業(1959)~国際政治による人道主義の行方〜」というテーマで講演をいただきました。

1959年から1984年まで続いた在日コリアンの北朝鮮への帰国事業により、日本人妻約1,800人を含めた9万3千人余が北朝鮮に渡りました。
講演の中では、帰国事業の概要、帰国事業が指導した背景(なぜ機関車の人権が軽視されたか)、今日の日本社会が帰国事業に対して持つべき視点と理解、が主に話されました。

多くの内容の中から、要点を抜粋します。

―テーマは主に3つ
1.北朝鮮「帰国事業」とは。特に開始時期に焦点を当てる。
2.1959年に始まった帰国事業に至るまでの国際関係
3.上記2つを踏まえた在日朝鮮人の人権と国際政治。一研究者としての考え。

―帰国事業の開始とその特徴

帰国船に乗船する場面

■帰国事業の特徴は組織化された事業であった。旗を掲げた人は帰国事業の当事者である。

新潟港から出港する帰国船に乗り込む帰国者。車なども見られる

■船自体は赤十字の印があるが、ソ連製の軍艦を改造したものである。このことからして、国際的な意味合いを持っている。また、大勢の日本人も集まっており、日朝友好の風景である。

北朝鮮の清津港で歓迎する場面。互いに涙を流しながら抱き合う人々

―帰国事業の概要
■1959年から84年まで。きっかけは在日コリアンによる帰国決議。それに対し日本政府が閣議了解をする。北朝鮮と日本の間に、赤十字国際本部との間で協定が結ばれた「日朝間帰国協定」に基づき84年まで続けられる。
■70年代に入り、帰国事業の暫定措置、全体からするとすごい人数になる。合わせて9万人を超える。在日朝鮮人の配偶者は1,800名程度いた。
■帰国事業については、在日コリアンが日本で暮らしに困窮し、かつ、北朝鮮の労働力が足りないという事情が合わさった事業である、というコンセンサスがある。概ね間違ってはいないが、その説明では十分ではない。
■帰国事業に対する見方は多様である。強制的な追放的な意味の「北送事業」という言葉もあるが、これは韓国側で使われている表現。
■10万人規模の帰国者が資本主義から社会主義への移動をした。終戦から10年、当事者が生まれ故郷ではないこと。冷戦期であることを考えると、どちらかの意図だけで実現することはできない状況。どのような意図があったのか、これが可能になったのか、を考える必要がある。
■東アジアにおける冷戦の生成期であることを考える必要がある。

―北朝鮮側から考える「帰国事業」
■まず、帰国事業は「対日人民外交の過剰推進」である。
■人民外交というのは、もともと中国とソ連による外交戦略であった。平和共存の原則に基づいて行われていた外交戦略であった。
■手段は国内における、新ソ連、親中勢力、引き上げ事業は政府間の交渉が伴う。人的交流が国家間の交流になる。
■その延長線上で、1955年に北朝鮮が日本との人民外交を開始(南日声明)。
■北朝鮮にとっての日本との国交正常化は特別な意味を持っていた。すなわち、南北分断状況における、韓国に対する体制優位、国家としての正当性の意味合いであった。
■第三次まで日韓会談が進んだが、この時期に人民外交が成果を上げる。
■1958年に壁にぶつかる。日韓会談の再会と対日「人民外交」が停滞する。ここにおいて、人民外交のこれまでの成果を最大限動員する形で、帰国事業が開始される。

帰国を求める在日コリアン

■「過剰」と言える意味は、「短期間であったこと」「政治的意味合いを持っていたこと」そして「帰国」という形式をとったこと。
■その後、日本共産党の帰国事業への全面支持があり、国際共産主義運動の延長としての意味を持ち始める。
■ただ、日本の中では、特に朝鮮籍者は「厄介払い」の対象となる傾向が強くなる。日本政府としても、北朝鮮在留日本人の引揚げ問題があり、北朝鮮に配慮せざるを得なくなる。その結果として、1956年に日朝「平壌会談」が開催。
■1958年の在日朝鮮人の帰国決議、1958年の金日成首相の帰国歓迎演説、を経て、1959年に帰国事業に対する閣議了解が行われる。しかし、これは赤十字社による事業とし、日本政府の事業ではない、という形をとった。
■当時は帰国事業に対する国民的支持があった。なぜ帰国事業をそこまで支援したのかというと、安保闘争の時期であり、帰国事業の実現も、安保闘争の一部として行われた。

―韓国側から見た「帰国事業」
■韓国籍を所持しない人をどのように扱うか、ということに対する一貫した政策を持たず。在日社会における「朝鮮籍者(韓国籍を取らない)」に対しては、共産主義者としてみなし、国民としてみなしていない「棄民政策」
■一方で、南出身者が帰国事業で北に渡ることは、韓国の国家としての正当性を損なうことから反対。このように、矛盾した対応をとらざるを得ない韓国政府であった。
■1958年、日本政府の閣議了解に対して、ほぼ国をあげての阻止、総力戦を展開。超党派的組織による帰国事業への反対運動が展開された。

日本政府の閣議了解に対して、韓国では大々的反対運動が展開された

■ついに1959年には韓国も「日韓帰国協定」に基づき、日韓帰国協定の準備を始める。しかし、帰国者に対する日本政府による「定着金」提供を前提とした条件付きであった。
■一方、アメリカの大きな反対がなかった理由は「居住地選択の自由」が当時、国際人権規範として採択されたため。また、将来的に北朝鮮地域の米兵遺骨回収のため、北朝鮮との関係を配慮する必要もあった。

帰国事業の開始時期は、東アジアにおける秩序が大きく改変された時期でもあった

―改めて、帰国事業の性格は
■人道主義を掲げながら推進されたが、事実上国際政治が作動していた。
■「どこどこの国が悪かった」ということをめぐる論争より、普遍的な人権イシューとしての問題提起が必要

質疑応答の内容も含め、多くの内容が議論されました。
続きは動画よりご覧ください。

 

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