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深層!北朝鮮 脱北者と語る、北朝鮮の実情 対話・質問会 (第12回ピース・デザイン・フォーラム)を開催しました | 2025.05.26 | 

5月18日に第12回となるピースデザインフォーラムを渋谷・光塾で開催。21名が参加しました。

前半

後半

これまでのピースデザインフォーラムは、登壇者がステージから話す形式をとっていましたが、今回は「深層!北朝鮮 脱北者と語る、北朝鮮の対話・質問会」というテーマにあるように、ファシリテーターとの対話を通して、参加者が感じたことや疑問に思った北朝鮮のことや川崎さん個人のことを聞くことができる形式で開催し、非常に満足度の高いものとなりました。

当日あった質疑応答の内容を紹介します。

Q:なぜ在日コリアンが北朝鮮に渡ったのですか?
A:日本に在日コリアンが住むようになった背景には、日本の植民地支配と、その後の1945年の解放があります。当時、日本には約200万人の在日コリアンがいました。解放後、多くの人が帰国しましたが、中には病気や家庭の事情などで帰国できなかった人もいました。私も3歳のときに病気で日本に留まりました。

北朝鮮は朝鮮戦争後に労働力が不足しており、在日コリアンを活用しようと考えました。その際、韓徳洙(ハンドクス)氏が金日成と共に在日コリアンの北朝鮮移住を促す謀略を行いました。北朝鮮から「帰ってこい」と呼びかけるのは不自然なので、在日コリアン自身が「行きたい」と希望する形式を取りました。これにより、形式上は在日コリアンが自主的に北朝鮮へ行く流れがつくられました。

北送事業(帰還事業、帰国事業)についてのドキュメンタリーを鑑賞し、当時の状況に思いを馳せる

Q:京都ご出身とのことですが、ご両親やご兄弟のことについて教えていただけますか?
A:私は京都で育ちました。両親は日本の斡旋業者に導かれて大阪に来て仕事を始めました。当初は在日コリアンとの接触はあまりありませんでしたが、ある集会をきっかけに朝鮮総連の存在を知り、朝鮮部落に移り住みました。父は建設関係の仕事をしておりました。兄弟は日本語しか話せず、日本人と変わらない生活をしていました。今は、下の三人の弟が他界し、一番下の弟だけが残っています。

Q:帰国事業の費用は北朝鮮が全て負担したのでしょうか?
A:いいえ、そうではありません。新潟までの移動や日本側の宿舎の手配は日本政府が行いましたが、北朝鮮行きの船に乗った後の費用は北朝鮮側が負担しました。日本政府もこの帰国事業に協力的で、当時生活保護を受けていた在日コリアンが多かったこともあり、送り出すことで経済的負担が軽減されるという考えもありました。

Q:脱北を決意されたきっかけと経路について教えてください。
A:私が北朝鮮に行った理由は、楽園のような生活を求めたわけではありません。朝鮮総連の宣伝に対して疑問を持っており、自分の目で北朝鮮の実態を確かめたいと思ったのです。税金がないというが、ではどのように国家が運営されているのか。社会主義国家の本質を理解したかったのです。

しかし、チョンジン港に到着した瞬間に、自分の判断が誤っていたことを悟りました。周囲の人々は皆、栄養失調でボロボロの服を着ており、まるで乞食のような光景でした。地元の人たちは手続きをすれば外に出られるが、日本から行った人は出られない。私は自分が缶詰に閉じ込められたような感覚に陥りました。それでも私は収容所などに入ることなく43年間生き延びました。そして、この北朝鮮で私は人生を終わっていいのだろうか。人間として生まれた最適の目的を北朝鮮で果たせるのか。そう考え、還暦を超えてから脱北を決意しました。

Q:中国やソ連が帰国事業に関与していたというのは本当でしょうか?
A:はい、事実です。金日成はソ連にこの事業の説明を行い、安全に社会主義体制が維持できるかを確認しました。中国は当時社会主義体制がまだ確立していなかったため、あまり干渉はしていませんでした。一方、韓国政府は強く反対し、列車のレール上に人を並べるなどして抗議を行いましたが、朝鮮総連はそれを乗り越えて帰国事業を実行しました。

Q:ハンドクス氏とはどのような人物だったのでしょうか?
A:ハンドクス氏は、戦後に北朝鮮を支持する団体として設立された朝鮮総連の初代委員長です。金日成と共に在日コリアンの北朝鮮移住を推進する上で重要な役割を果たしました。彼の働きかけにより、北送事業が成功することになりました。

Q:チョンジン港に到着した直後、どのような生活が始まったのでしょうか?
A:新潟港では盛大に見送られ、船内では娯楽も提供されましたが、チョンジンに着いた途端、現実を突きつけられました。迎えに来た人々の姿はお粗末で、皆が栄養失調の状態でした。私たちの目の前に現れたのは、宣伝とは程遠い、過酷な現実でした。

Q:北朝鮮の人々の生活はどのようなものだったのでしょうか?
A:朝起きてから寝るまで、国家の指示に従う生活です。報道も遮断されており、外の世界を知ることはできません。人々はこれが人間の社会だと思い込んで生活していました。自由も人権もなく、ただ命をつなぐために生きている状況でした。

Q:北朝鮮では冗談も言えない環境だったのですか?
A:冗談は場合によっては命取りになることもありました。例えば、教室にあった金日成の肖像画の前で「ぶっ」とオナラをした同級生は、大人になってからそのことを知っていた友人から憎まれ、密告されたことで保衛部に連れて行かれ、処罰されました。密告社会であり、何気ない言葉でも処罰の対象となるのです。

Q:学校での教育はどのような内容でしたか?
A:私は朝鮮総連系の学校に通い、その後、大学にも進学しました。当時はまだ日本時代からの本やソ連の本も図書館にあり、自分の疑問を解消する助けになりました。しかし、大学3年生の頃から検閲が厳しくなり、非社会主義的な書籍は全て排除されました。

Q:北朝鮮の憲法では自由が保障されていると聞きますが、実際にはどうなのでしょうか?
A:北朝鮮にも社会主義憲法が存在し、自由が明記されています。しかし、国民は憲法の内容を理解していても、その矛盾を指摘することはできません。個人的な意見を述べることは許されず、たとえおかしいと思っていても、口に出せば政治犯として処罰される可能性があります。

Q:朝鮮半島の将来について、どうお考えですか?
A:北朝鮮の人々は、韓国に対して大きな期待を抱いています。韓国の経済的発展や人道支援を経験する中で、統一への希望も高まりました。私はかつて地質研究所に勤務しており、北朝鮮の地下資源は非常に豊富であることを知っています。もし韓国の技術と北朝鮮の資源が統合されれば、アジア、さらには世界の平和に貢献できる力になると信じています。

Q:南北統一について、中国やロシアはどのように反応すると思われますか?
A:中国やロシアは基本的には反発的な姿勢を取ると思います。ただ、統一された朝鮮半島は無視できない存在になります。韓国だけでも大きな経済力を持っており、そこに北朝鮮が加わればさらに強力になります。最終的には反対し続けることは難しく、平和がより強固になる可能性があります。

Q:北朝鮮とルーマニア、ベトナムなどの国との違いは何だとお考えですか?
A:北朝鮮は独自の独裁体制を強固に築いており、ルーマニアやドイツとは次元が異なります。封建的な要素が今の制度に重なっており、それが体制を強く支えているのだと思います。

Q:北朝鮮での監視体制はどれほど厳しいものなのでしょうか?
A:北朝鮮では全国民を監視する体制が敷かれています。三人一組でお互いを見張る制度があり、職場や学校には必ず保衛部の部屋があります。些細な言動も記録され、報告される仕組みが徹底されています。

Q:韓国では若い人が北朝鮮を称賛することがありますが、その背景には何があるのでしょうか?
A:それは「主体思想」を体系化した黄長燁氏の脱北を韓国政府が認めたことが一因です。彼は韓国で「主体思想」を世界に広めようとしました。金日成や金正日を高く評価する思想です。これは韓国の資本主義とは相容れない考え方であり、その影響を受けた人たちによって韓国社会が混乱し、代償を払っている側面があります。

Q:北朝鮮にあるレアメタルの話と、中国やロシアとの関係についてどうお考えですか?
A:北朝鮮にはレアメタルをはじめとした豊富な地下資源があります。こうした資源があるため、中国やロシアとの利害関係が強くなります。現在のように北朝鮮がロシアの戦争に協力している状況では、平和への道は遠のいているように見えます。しかし、これが永遠に続くわけではなく、停戦や外交の進展によって転換点が訪れると信じています。

Q:朝鮮総連の役割について、日本国内での在り方はどう考えていますか?
A:私は毎月、朝鮮総連前で街宣活動を行い、「総連をやめなさい」と呼びかけています。組織として声明を出すのが理想ですが、それが難しければ、まずは個人単位でやめていくべきだと訴えています。朝鮮総連の寿命は長くないと思っています。

Q:日本政府、とくに外務省の動きについてはどう感じていますか?
A:正直なところ、外務省が北朝鮮問題に対して効果的な動きをしているとは感じていません。「私たちは私たちのやり方でやっています」という姿勢が強く、拉致被害者家族などと連携して国家を動かす方が、現実的な道ではないかと思っています。

Q:拉致被害者が戻ってくる可能性について、どうお考えでしょうか?
A:現時点では、北朝鮮が崩壊しない限り、拉致被害者が戻ってくることは難しいと思っています。家族を脱北させることもできず、会いに行くこともできない状況です。

Q:政府が発表している人数以外にも、拉致された方がいると思いますか?
A:はい、いると思います。北朝鮮国内にいる人々は、拉致があったこと自体を知らない場合が多いのです。

Q:統一はどのような形で実現すると思いますか?
A:統一は計画通りに進められるものではなく、突発的に起こるものだと思います。ドイツのように、内部の矛盾が極限に達したときに一気に動く可能性があります。それが明日起こってもおかしくない状況にあると感じています。

Q:脱北のための資金はどのように調達されたのですか?
A:今のように莫大なお金は必要ありませんでしたが、国境警備隊やブローカーに支払う費用が必要でした。私は日本から少しずつ送金してもらったお金や、経営していた食堂の利益を貯めて、中国元に替えて保管していました。当時、北朝鮮では飢餓の時代を経て闇市が発達しており、平壌では正式に区画が設けられた市場が存在し、資本主義的な経済が自然発生的に形成されていました。

Q:検閲はなかったのですか?
A:検閲は存在しましたが、その厳しさは検閲官の裁量に左右されることがありました。時には後の見返りを期待して見逃すようなこともありました。

Q:結婚や就職の自由について教えてください。
A:結婚に関しては強制されることは少ないものの、基本的に自分と同じ階級の相手としか結婚しません。帰国者と地元の人との結婚は避けられる傾向があります。就職に関しては国家が決定します。私は最初、大きな機械工場の設計室に配属されました。男性は自由に職場を変えられませんが、女性は結婚などを機に移動することも可能です。

Q:韓国では脱北者に対して支援制度があると聞きますが、中国経由での脱北にはリスクがあるのでは?
A:はい、中国では脱北者は人身売買の対象になってしまうことがあります。使い物にならないとされた女性や高齢者は、結婚できない農村の男性に売り飛ばされることもあります。写真アルバムを通じて相手が選ばれる仕組みが存在します。私は日本の男性が見合いに来た際の通訳をしたこともあります。中国にとって脱北者は金儲けの手段でしかないのです。

Q:脱北にかかった期間はどのくらいですか?
A:私は2003年3月に脱北し、2004年8月に日本に入国しました。約1年半かかりました。普通の脱北者は中国にいる間、常に逮捕のリスクに晒され、不安な毎日を送っています。

Q:金正恩氏がトランプ前大統領と会談し、戦争の終結を図ろうとした時期がありました。今も戦争状態が続いていると主張する北朝鮮ですが、アメリカとの間で戦争が終結する可能性はあるのでしょうか?
A:北朝鮮が体制を維持している限り、戦争状態の正式な終結は難しいと思っています。北朝鮮は「戦争状態が続いているから自衛が必要だ」との理屈で軍備増強を続けており、この理論を崩すには体制の根本的な変化が求められます。どのようにしてその状況を放棄させるかが大きな課題です。

Q:北朝鮮に対して、個人的な恨みはお持ちですか?
A:いいえ、私は北朝鮮という国そのものに恨みはありません。恨みを抱くべきは独裁者であり、一般の国民に対してではありません。自分の選択によって人生を北朝鮮で過ごし、その結果に対する責任は自分自身にあると考えています。

Q:もし朝鮮半島が統一された場合、やりたいことはありますか?
A:一番にしたいことは家族と会うことです。そして、一緒にご飯を食べたいと思っています。できれば私が作った食事を、家族に食べてもらいたいのです。

Q:チョンジンや咸興の街の様子は、日本の街並みに比べてどうでしたか?
A:チョンジンは非常に暗く、煤煙にまみれていました。後に知ったのですが、チョンジンには製鉄所があり、その影響で街全体が黒ずんでいたのです。雨が降れば干していた洗濯物も黒く染まるほどでした。

最後は響沁太鼓 千代組代表の千代園剛さんの演奏で、北朝鮮へいる人々、今、悲しみの中にいる人々に心を寄せる時間を持ちました。

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