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【”北朝鮮で生きる”とは?】脱北者・川崎栄子さんのトークライブを開催しました | 2025.07.28 | Program 2.アジアにおける平和の文化の創造
7月12日(土)、渋谷で開催された「”北朝鮮で生きる”とは?」トークライブ(第14回ピース・デザイン・フォーラム)の内容を紹介いたします。
このトークライブはご好評いただいた「深層!北朝鮮」〜脱北者と語る、北朝鮮の実情 対話・質問会〜(5/18開催)の第二弾として行われ、脱北者・川崎栄子さんの体験談や深い思いを、後藤亜也(GPF Japan代表理事)が対話形式で伺っていきました。
◾️ 高校3年生で北朝鮮に渡り、現実を知る。一年後には家族が…!?
後藤:川崎さんは17歳の時に北朝鮮に一人で渡られましたが、ご家族には来て欲しくないということで、色々と努力されたと聞きました。
川崎:私は朝鮮総連の「北朝鮮は地上の楽園」という過剰な宣伝が疑問でした。その宣伝の根拠を見極めたいと思いました。朝鮮戦争が終わって5〜6年の間にどうやって地上の楽園になるのか。そして税金がない国、社会主義の国とはいったいどんな国なのか・・・。その疑問を解くために、私は誰にも相談しないで北朝鮮行きを決めて、朝鮮総連を通さず、区役所を通して申請し、両親には事後報告しました。
しかしその途端にみんなが反対しました。朝鮮総連は私を将来は幹部にしようとして「東大であれ京大であれ学費は出すから日本に残りなさい」と。京都朝鮮高校の校長先生も「朝鮮総連常任委員会の決定で、学生の中で君だけは北朝鮮に行けない」とおっしゃいました。生意気だった私は「朝鮮総連のためではなく、朝鮮半島全体の未来を確かめたいので、いきます」と言って帰ってきました。父がある朝、私に「座れ」と言って話したのは「どうしても行くというなら、先に行って1年間待っていなさい。その間に日本での生活を畳んで自分たち家族も行くから」ということでした。それで私一人が先に北朝鮮に行ったのです。
北朝鮮では宣伝とあまりに異なる現実に、たくさんの人が精神を病み、自殺する人もいました。私も最初は自殺しようかと思いました。しかし一年後には家族が来ることになっていましたから、死ねませんでした。考えた挙句、私は家族に手紙で、「絶対に来るな」ということを伝えようとしました。当時小学校4年生だった弟の名前を書いて、「彼が今付き合っている彼女と結婚して、子供も生まれて、家族がまとまってから北朝鮮で会いましょう」と、ずっと未来にならないと起こるはずのないことを、近い未来のことのように書いたのです。同じ内容の手紙をずっと送り続けました。
一年後、私の意図を理解したのか家族は来ませんでしたが、まだ安心はできませんでした。安心できたのは、3年くらい経って母の親友だったおばさんが北朝鮮に渡ってきて、私を訪ねてきてくれた時です。そのおばさんが言うには、私の両親は私が「来るな」と言っていることを理解して、北朝鮮に来ようとしていたそのおばさんを止めたというのです。ただ、そのおばさんは旦那さんのDVに苦しんでいたので、こんなにも騙されることになるとは考えもせず、旦那さんだけを置いて子どもたちと姑さんを連れて北朝鮮に来てしまい、母の言うことを聞いていれば良かったと私を抱き抱えて大泣きしていました。
◾️文武両道。得意の水泳では男性も負かしてしまった
後藤:川崎さんは子どもの頃から文武両道だったと聞いています。驚いたのは子どもの頃から大学まで、授業のノートをとったことがないということです。黒板に書いてあることや先生の話を全部覚えてしまったのだとか。運動の面でも、水泳がとてもお上手だったと聞いています。
川崎:はい。私はお勉強にあまり時間をかける必要がなかったので、時間があまって、本をたくさん読みました。それと色々なスポーツをしたのですが、中でも水泳が得意でした。小さい頃は喘息で休みがちだったのですが、水泳のお陰でそれが治って、水泳が好きになりました。自宅から10分くらい行くと淀川の上流の宇治川でした。水深が深くて毎年水死者が出ると言う危ない川です。一度父が自転車で宇治川の橋を渡っていたら、先週高校生の男の子が死んだばかりのその川で、女の子が泳いでいるのが見えて、「誰なんだ!?」と思ったら川から上がってきたのが私でした。父に水着を取り上げられ、母は「こんな子になぜ水着を買ってやるのか!」とめちゃくちゃに怒られていました。それでも私はすぐ母に「ねぇ、水着買って」と言って、また泳ぐのですが。(笑)
後藤:北朝鮮でも水泳をされたんですね?
川崎:もしも北朝鮮で専門的に水泳をしていたら、選手になったでしょうが、そういうのはありませんでしたので、近くの海水浴場で泳ぎました。海軍出身の男性と勝負しても勝ちました。職場の支配人も泳ぎが自慢だったのですが、私と勝負して、私が勝ってしまいました。専門でやっていたらきっと国家選手になっていたと思っています。
◾️ 友達から借りた400ページのノートを一夜漬けで読破。政治科目の結果は?
後藤:いや、すごいですね。北朝鮮の大学では体調が大変な中で試験を受けて乗り越えたお話もありました。
川崎:もともと私は筆記をする習慣がなかったので、ノート自体を持っていませんでした。それでは絶対に合格できない科目が、北朝鮮の政治科目です。北朝鮮は教科書がありませんからノートが必要なのです。政治科目の試験の前に、機械工学の試験があり、その責任者を私がやっていました(優秀な学生は、自分だけでなく他の学生にも良い点を取らせるために貢献するという制度)。私は先生に、みんなに良い点数を取らせると言ってしまいました。除隊軍人の男性たちに三日間徹夜でつきっきりで勉強させて、その上で自分も試験を受けたら、あまり無理をしたので、倒れてしまいました。すごい頭痛がしました。
その後の政治科目についてはただでさえ苦手なのに、勉強ができず、その後三日間寝込んでいました。諦めて補習試験を受けるつもりでいたら、前日になって担任の先生から「それでは平均点が下がるからダメだ、何としても受けろ」と言われました。その先生はまだ若くて、出世がかかっていました。
「私は病気なんですよ」
「絶対に受けないとダメだ」。
言い合いをしているうちに腹が立ってきて「じゃあ受けますよ」と言うことになりました。それなのに先生はさらに「絶対に良い点を取れ」というのです。
他の人から200ページの分厚いノートを二冊借りて、徹夜で勉強しました。北朝鮮では夜は消灯になってしまうので、電気がついている場所を借りて玄関先で勉強しました。朝5時まで、ミミズが這ったようなノートを解読しながら、何とか400ページを読み終えて試験に臨みました。
この試験は一人一人問題が違って、くじのように問題を引いて解くのですが、引いてみると何とかできそうな問題でした。三問あって、私がさっと書いて部屋を出ました。先生は何も書けなくて早く出てきたと思ったようですが、そうではありませんでした。
1ヶ月くらいで結果が出るのですが、私は3000名の中で最優秀の成績を取ることができました。先生は「川崎の解答は加えることも削ることも必要のない完璧な解答だった、試験を受けるなら川崎のように受けなさい」と言ってくれました。
◾️ 北朝鮮の海の幸。ホタテの貝柱は直径10センチ
後藤:みみずが這ったようなノートを一度読んで理解して、それを澱みなく出力できる能力。すごいですね。一方で北朝鮮での生活ですが、私たちはとにかく貧しくて、食べ物もあまり美味しくないのかなというイメージがありますが、実は以外とそうでもない部分もあるというお話をしていただいたことがあります。その辺りをお願いできますか?
川崎:北朝鮮ではお米がほとんどないので、じゃがいも、小麦、こうりゃんなどですから、主食では日本には敵いません。ですが副食(おかず)は色々とあります。国の配給では穀物が中心で、野菜などは滅多にありません。しかし闇市場に行くと、農家の人たちが色々なものを売っています。帰国者は地元の人よりはやはり物持ちですから、日本から送ってもらったものを売って、そのお金で食べ物を買ったりします。
海が近かったので、おばさんたちが海産物を頭の上に乗せて運んできて、買ってくれそうな家を家庭訪問で売り歩いていました。カレイ・ヒラメ・タコ・ホタテ貝・牡蠣など。驚くのは日本では高い牡蠣がめちゃくちゃ安いのです。牡蠣をバケツにいっぱい買ってキムチに入れたりしました。北朝鮮で採れる天然のホタテは貝柱の直径が10センチくらいあります。それを切ってお寿司にすると本当に美味しいです。日本では味わえないような自然の産物も豊かでした。
後藤:場所や季節によってその時の旬なものが手に入るんですね?日本のホタテは何て小さいんだろうと思ったでしょうね。
川崎:本当にそうなんです。私は今でも日本のホタテの貝柱は買う気がしません。食べ物は工夫の仕方によっては日本以上に素晴らしい場合もありました。
◾️ 添加物は使わず、素材の味を引き出す
後藤:確かに日本でも、日本海側は海産物が豊かですから、それは北朝鮮もそうだというのは理解ができますし、昔はそういう美味しいものを日本に輸出もしていましたよね。あとは北朝鮮では、添加物を使わないですよね?
川崎:北朝鮮では添加物というものがありません。だから自然のその味をどう組み合わせれば美味しい味が出るか、それを研究するわけです。私も家には添加物というのはほとんどありません。醤油は少し使います。それと塩昆布、塩、お酢は使います。お砂糖は使いません。キムチをつける時の甘味はりんごをすって使います。
◾️ 貧しくても努力し、気高く生きようとする北朝鮮の人々
後藤:私も以前はきっと北朝鮮では美味しくないものを食べているんじゃないかと勝手に思っていましたが、日本よりも美味しいものを、自然の素材を使いながら、食べることもできたということですね。これも北朝鮮の生活のリアルですね。次に北朝鮮の方々の住まいとか暮らしぶりはどんな感じなのでしょうか?
川崎:北朝鮮の人たちは本当に貧しいです。貧しいですが、家の中に入ったらピアピカに掃除して、整理整頓されています。「洗い物が溜まっている」という現象がありません。私は両親が南の韓国出身ですから、実家の流しに洗い物くらいはありましたが、北朝鮮の人たちはそういうことがなく、いつも整理整頓が行き届いています。
ある時、新婚の女性の家にお邪魔したら、壺とか花瓶が見事に飾ってあって「新婚なのにすごいね。お金を貯めていたんだね」と言ったところ、彼女が笑って壺を回して裏を見せてくれました。実は壊れた壺でしたが、壊れてない方だけ見せるようにして飾ってありました。家具もないのですが、タンスのように見せるために(映画のセットのように)、前だけがあってタンスに見えるものを作っていました。
貧しくてどうしようもないから、もうどうでもいいや、という生活をせず、そうやってでもちゃんとしたいのが北朝鮮の人々です。家に行ってみると「こんな貧しい人なのに、どうしてこんなにちゃんとしているの?」と不思議に思います。何百万も餓死するから、目も当てられない生活だろうと思うかも知れませんが、そうでもないのです。
後藤:田んぼなんかはどうでしょうか?
川崎:本当に努力をちゃんとするというか、手で植えているのに、縦横きっちりと植えてあります。韓国では機械もあるのに、北朝鮮より雑だと感じました。
◾️ 九死に一生を得た仕事でのミス
後藤:こういうお話を伺うと、北朝鮮の生活が見えてくるような気がします。会社では機械の品質管理の仕事をされていたと聞きましたが、一度、何かのミスがあって、とんでもないことになったと聞いたことがあります。
川崎:はい。私が新しく赴任した職場では、樹脂を混合して送り出す機械を作っていました。前任者は3年かけてできなかったのですが、私が赴任して見るとそう難しくもなさそうだったので、図面を書いてみました。その図面が機械工場へ送られ、3ヶ月後に作られた機械が戻ってきました。
ところが翌日出勤したら、職場が大騒ぎになっています。「川崎が使えない機械を作った。あいつはもう山に送られるんだ。タダでは済まない」と。
機械のところへ行ってみたら担当者が「どうしてくれるんだ。国家のお金をどれだけ無駄にしたんだ」と言ってきます。確認してみたら、私が間違ったことは確かだったのですが、それは設計図に逆ネジを使うように書くべきところに、その記載をしていなかったという単純なことでした。それでそのネジを取り替えたらすぐに機械は回り始めました。
後藤:その工場の中では、川崎さんは日本からの帰国者(差別を受ける身分)だ、というのは、みんなわかっているんですか?
川崎:はい。わかっていました。私は設計員なので設計だけしていれば良いのですが、現場の手伝いに入って働くこともあって、素早く動いたので現場の人たちが私に親しみを持ってくれていて、この件で私が山奥に飛ばされるんじゃないかと心配してくれていました。私が何とか助かったので、みんなで拍手してくれました。
後藤:日本では何かミスを犯しても、さすがに収容所に送られるとか、社会的に処罰されることはないですよね。
川崎:私ももしもその機械の不具合の原因を究明できず、そのままにしていたら、山奥に飛ばされるか、人生が終わってしまっていました。
後藤:このあたりが、北朝鮮の、私たちには想像することが難しい社会的な雰囲気ですね。私たちがその場にいたら、正に絶体絶命の場面ですね。同じようなことで飛ばされたり、命を落とした方もたくさんいらっしゃるはず。川崎さんだからこそ命拾いして、今、ここにいらっしゃると感じます。
◾️ 90年代の大飢餓の極限で「地獄絵図」を見た
後藤:そのような北朝鮮で90年代の半ばには「苦難の行軍」の大飢餓の時期がありました。その時の状況を語っていただけますでしょうか?
川崎:1994年に金日成が亡くなりました。それまでは何とか配給は出ていました。北朝鮮ではそれまで配給によって統制され生きていたのです。ところが金正日はその配給を全廃してしまいました。その中で大飢饉がやってきました。人間は1週間も食べなければ簡単に死んでしまいます。金正日は配給を出さずに金日成のお墓(錦繍山太陽宮殿)を作り始めました。それを聞いた私は本当にとんでもないことだと思いました。
たとえば「労働者区」というエリアには住宅だけがあって畑などがありませんから、配給だけが頼りでした。そこでは部落ごと全滅しました。餓死するような状況だと、詐欺、暴行、傷害、殺人・・・。どんなことをしてでも人間は食べようとします。国中がひっくり返って色々な事件が起きました。
ある時、私の知り合いだった一家4人の惨殺事件がありました。最初は強盗だと言われていましたが、犯人は何と、その家で居候としてお世話になっていた男でした。その一家は帰国者家族だったのですが、親戚が日本と北朝鮮を行ったり来たりして貿易の仕事をする人でお金持ちだったので、いつもその一家に30万円ほどお金を置いていってくれていました。そういうことで余裕があったので居候の男性もそこにいれば三食不自由せず、助かっていたのです。それなのに、たった30万のお金を自分のものにするために、お世話になっていた一家を殺害してしまったのです。そのような惨事が普通に起こりました。
もう一つは、私の職場にいた党の副委員長はとても常識があって落ち着いていて、立派な方でした。ある時、大飢餓の時期に、16人が殺される事件が起きました。そしてその人肉を捌いて冷麺の具にして売っていたということで犯人が摘発されました。息子が殺人をし、母親が冷麺屋をしていたのです。ところがその息子が、私が知っていた党の副委員長だったのです。名前を聞いてびっくり仰天しました。
人間は極限状況では狂ってしまいます。昔の宗教画で「地獄絵図」というのがありましたが、その情景は想像ではなく、人間の歴史の中の現実であるということを知りました。
そのようにして国際的には300万人が餓死したと言われましたが、内部にいた私としては500万はくだらないと思います。本当に死体だらけでしたから。餓死した人、殺された人…。都会では警察が命令を受けて死体を片付けましたが、田舎では山積みになっていました。名前も、誰かもわからない。死体処理に当たった人は、証明として紙を一枚もらいました。あとで国からいくらかのお金をもらえるというものでした。その紙を束でもっていました。罪のない人が大勢亡くなりました。
私が言いたいのは、制度の違いがこんな大きな差を生むということです。同じ日に戦争が終わったのに、韓国は豊かさを享受し、北朝鮮は地獄になりました。社会主義が素晴らしいという言葉には絶対に騙されないでください。自由民主主義でこそ、初めて正常な社会が成り立ちます。
◾️ 病弱な夫、5人の子どもたち。わずかな配給米を三つに分けて…
後藤:そのような狂気の状況の中、川崎さんのご家族は生き延びて来られました。川崎さんのご主人はお体が弱い方だったと伺いました。「配給のお米を三つに分けて…」というエピソードについて、お話いただけますか?
川崎:我が家では配給米をもらっても、子どもたちには雑穀を食べさせて、米だけは分けて溜めておきました。お米を三つに分けます。主人が病気で入院していましたので、一つは売ってお砂糖を買い、それをブドウ糖に精製してもらったものを点滴用の液体として、主人の病院に持って行っていました。また、主人が時々、何日間か退院した時のために、お米を取っておきました。子どもたちにもその時には雑穀ばかりでなく、雑穀に少しだけお米を入れたものを食べさせました。
私は自分で決めて北朝鮮へ行ったので、親に頼るわけにいかず、できるだけ自力でやろうとしました。それでも親は気に入った服を買っては送ってくれていました。それを私は自分で着るものは着て、一部は売って生活の足しにして暮らしました。ですから他の帰国者のように仕送りを使って良い暮らしはできませんでしたが、お米を分けておいて、一部は売って砂糖を買ってブドウ糖にし、一部は食べて、そのように生活しました。
後藤:北朝鮮の病院には点滴用の液体もない。患者さんのご家族は必要なものを自分で準備しないといけないということですね。日本だったら入院すれば看護師さんがいて、保険も降りて、どうにかしてくれます。でも、国はどうにもしてくれない。だから自分でどうにかするしかない。なけなしのお米を売るしかない。それでも頑張って生きる。本当に色々な気持ちが伝わってきます…。
◾️ 還暦をすぎて脱北したわけ
…川崎さんには5人のお子さんがいらっしゃり、ご長女、ご長男、その下に3人の娘さん。川崎さんは2003年に脱北された後、娘さんがお一人と、そのお子さん二人だけ、脱北に成功されました。他のお子さんたちが脱北できなかった事情など、お話いただけますか?
川崎:脱北については北朝鮮に行った最初の頃から考えていました。しかしある時、仲の良かった帰国者の男の子3人が、それぞれ大学に行っていたのですが、一緒に脱北しようとして失敗してしまいました。鴨緑江を泳いで渡る際に一人が足を攣ってしまい、溺れました。彼は二人に先に行くようにと合図しましたが、二人は放っておけず、中国の公安に伝えて船で助けてもらったのです。その後、北朝鮮の保衛部に引き渡されました。当時は殴るのではなく、眠らせない拷問とか、強い光を当てて苦しめる拷問をされたそうです。スパイ目的の脱北ではなかったので、殺されはせず、中央からの指示で元の大学に戻されました。ただし24時間監視がつきました。卒業証書はもらえず、医大生だった彼は無医村の看護師として配置され、ずいぶん、辛い人生を生きました。
そのような友人の失敗を見て、女の私には難しいと考え、就職し、結婚しました。子育ての間は脱北は考えられません。私が45歳の時に主人が亡くなりました。子ども達を育て、結婚をさせ、気がつくと還暦になっていました。それでこのまま一生を終えるかと考えたら、それはあり得ないと思い、脱北を決行して中国に入りました。
◾️ 「お母さんはこれからは、自分の親兄弟のところへ…」
北朝鮮を出た後、私は中国の内陸の方にいたのですが、北朝鮮側から息子が国境まで来たという連絡があり、私もバスでそこに行きました。2003年当時は、まだ北朝鮮がそれほど脱北する人に神経を使っていませんでした。国境警備隊に高級タバコでも渡せば、警備隊の目の届く範囲内で息子と話しても、何も言われませんでした。そのようにして河川敷で息子と話しました。
私は自分が最初に脱北してルートを確保し、その後で子ども達を脱北させようと考えていましたが、脱北して日本に行くことをどうやっても、息子に切り出すことができませんでした。その時に息子の側から切り出したのは「お母さん。お母さんは僕たちをみんな育ててくれて、親としての務めは終わったので、これからは自分の親兄弟のところに行っても良いよ」と。
息子からすると、父親は北朝鮮の人だから家族・親戚がいるけれども、母親は一人きりで生きているのを見てきたから、少し不憫に思っていたのだと思います。「だから帰って良いよ」と。本当に涙が出ました。
私は「じゃあ、あなた、一緒に行かない?」と言ったんです。「いや、僕は他の兄弟をみんな送り出して、最後に動くから」と答えました。男の子は一人だったので、そういう責任感もあったのだと思います。
◾️ 誰よりも愛した孫息子
その息子に、息子が一人いました。私の孫です。その孫は特別な孫でした。勉強もスポーツもずば抜けていて。小学生の頃から100万人の道で7人だけ選抜されるエリートコースで勉強していました。その後、中央に引っ張られそうになり、私に相談が来ましたが、行かせたら最後、会えなくなってしまうからと止めました。その後、その子は軍隊に入りました。
軍隊に行くと日本と関係のある人間はみんなカモにされます。私の孫もしょっちゅう家に帰らされて、何か物を持ってくるように要求されました。しかし孫は、おばあちゃんからそんなに物を送ってきてもらうことなんかできないと分かっていました。それで上官の要求を聞けませんでした。
それでその上官が「コイツからは何も取れない」と分かった途端に殴って、建物の6階から突き落として殺してしまったのです。私には他にも孫がいましたが、正直言ってその子しか目にないくらい、その子を可愛がりました。しかしその子が亡くなりました。それが北朝鮮というところです。
◾️ 人間の最悪の部分を引き出す北朝鮮の体制。しかしそこに生きる人々は…
後藤:そのお孫さんが亡くなったことも、軍隊からは何の連絡もなく、紙切れ一枚だったと聞きました。これが北朝鮮ですが、北朝鮮だからしょうがないとも言えません。だから先ほどのお話のように、生活のために努力する人の姿や、人間同士の助け合いもあるし、喜びもある。しかしその一方で、北朝鮮という社会は人間の一番悪い物を引き出してきてしまう、特にそれは立場の弱い人に向けられる、そんな世界ですよね。
ただ、そこにいる人々は間違いなく私たちと同じ人間です。言ってみれば監禁されている人質のような状態で、人質が悪いのではなく、そのような状況に置いている独裁者の問題ということになります。それを世の中に訴えるために、川崎さんは北朝鮮と金正恩を2018年に訴えて、2023年10月30日に東京高等裁判所で全面勝訴して、そのニュースは世界を駆け巡りました。最後の差し戻し裁判の結果も時間の問題で出てくるだろうと思われます。
◾️ 私の最終目的は「家族と再会すること」
後藤:前回のフォーラムで「川崎さんは北朝鮮を恨んでいるんですか?」という質問が出て、川崎さんは「北朝鮮は恨んでない。でもやっぱり独裁者は許せない」と答えました。今日、川崎さんのお話をお聞きして、学校でも職場でも命からがら生き延びて、今ここに川崎さんがいらっしゃるのは本当に奇跡だと感じます。そんな川崎さんの最終目的はやはり家族に会うということ。
川崎:はい。私の最終目的は「北朝鮮にいる家族と再会すること」です。私は昨日で満83歳になりました。でも私は家族に会うまでは絶対に死にません。みなさん、このことの実現のためにご協力をお願いします。