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多文化共生のモデル的な事例を紹介しています2013.07.11 |
面積75平方km、人口1万7千人の山梨県西八代郡市川三郷町は、甲府盆地の南西に位置し、平坦地と中山間地が広がります。かつて養蚕が盛んだった頃、市川三郷町発祥の、葉が大きく葉肉の厚い「一瀬桑」が養蚕に不可欠な桑の最良品種として全国に普及し、日本の養蚕を支えていました。
しかし絹の需要の低下とともに養蚕農家は激減し、農業人口の減少や高齢化に伴い地域の活力が失われつつある中、日本人女性と結婚し市川三郷町山保地区に移住した韓国人男性ハン・ソンミンさん(35歳)が地元で注目されています。ハンさん夫妻が桑の葉茶製造と桑の葉生産で地域農家を支援し、地域の活性化に貢献する様子が、2012年8月にUTYテレビ山梨の特別番組で紹介されました。
GPFF Japanは、地域活性化に貢献する多文化社会のモデルケースとして、ハンさん夫妻、農業技術支援する県農務事務所臨時職員、さらにはハンさんが桑生産を支援する地元の方に取材しました。
山梨県峡南農務事務所臨時職員・山本亨さんのインタビューはコチラ。
桑生産を支援する長田栄子さんのインタビューはコチラ。
<ハン・ソンミンさんのインタビュー>
―ハンさんが日本に来られたのはいつですか?
ハン:日本に来たのは2004年ですが、2007年に義理の父から話があるから山梨に来てほしいと言われたのがきっかけで桑の葉茶の会社をスタートしたのが2008年ですね。
―最初からこの山梨に住んで桑畑をするという話だったわけですか?
ハン:2008年には生産者の方がいらっしゃったので、私たちはそこから桑の葉を買い取るだけという感じだったのですが、自分が畑をやるようになったのは長田英俊さんの畑が初めてです。それがきっかけでだんだん広くやるようになったわけです。
―ハンさんが山梨に移り住んで、苦労する点が多々あったと思います。
ハン:日本に最初に来た時一番大変だったのはやっぱり文化の違いです。私は韓国で産まれて韓国の文化や風習の中で育ってきたのですが、日本に来た時、肌や顔つきは日本人と韓国人は似ていていも、文化や考え方がまるで違うことが分かって一番大変でした。
―例えばどういうところが違いましたか?
ハン:まず、日本の方たちの心がよく分からないということでした。日本の方たちはあまり表現をしないので。韓国の友達、先輩や後輩と話をすると彼らは私のことが好きで、私がやろうとすることを応援すると気持ちを込めて表現するのですが、日本の方はあまり気持ちを言葉にしたり表現したりしないのです。そこが自分にとっては最初大変でした。
それがだんだん少しずつ分かってきて、日本人は基本的に恥ずかしがりで、自分の親に対しても、そういう表現はしないと分かりました。それは文化として定着しているので、仕方ありません。でも正直なところ慣れないですね。以前に比べたら慣れたように見えるかも知れませんけどね。まあそこが苦労といえば苦労ですが、あくまで個人的な苦労です。
仕事においての苦労としては、やはり外国から来たので最初はいくら私が妻と一緒に頑張ってもあまり応援してくれる人はいなかったことです。日本のある知り合いから、日本人は外国人に対しては警戒心が強いから口では応援すると言ってくれても実はそうじゃないと聞いていたので、だからやはりそうなのかなと思ったりしました。
例えば、町役場に行って、こういうことをしたいのでぜひ協力してくださいといくら訴えても何も返事がなかったのです。私も一生懸命これは単に自分たちのためでなく、この地域の素晴らしい特性を活かして若い人たちを呼んで地域を活性化させるためにやりたいのでぜひ力を貸してほしいと気持ちを込めて話してもなかなか返事がないわけです。
―返事がないというのはどんな感じですか?
ハン:「ああ、はい」「ああ、そうですよねえ」「ぜひ頑張ってほしいですねえ」みたいな、聞いているのか聞いていないか分からない感じですかね。
―そうだったんですね。でも今は行政も応援してくれているようですが、変わったきっかけは何ですか?
ハン:やはり去年(2012年)のテレビ番組の力ですね。あのように大きく取り上げられると、同じ外国人でもこの人は信頼できるといった感じで変わるものなんですね。
―テレビで報道されてみんな知っているとなれば安心するわけですね。
ハン:そうみたいです。でも2、3年前に知り合った仕事の取引先の会社の社長さんは、最初から大変なことや相談したいことがあれば自分を友人だと思って何でも話してくれと言ってくれたので、私も彼に心を開いて何でも相談する兄弟みたいな関係になれました。
―信頼関係を築く上で日本人はその人が本気なのかというところをよく見ます。どんなに口でこの村を愛していますと言っても、半年で嫌になって出て行くとかありますが、きっとハンさんもそういうところを試されていたのではないでしょうか?信頼を勝ち取ることができたのはハンさんがこの市川三郷町山保で日本人以上に地元の桑を愛している気持ちが伝わったのではないかと思うのですが、そんな気持ちが伝わったと感じた瞬間みたいなのはありましたか?
ハン:そうですね。ただ自分ではまだまだだと思っています。あくまでテレビで紹介された方々は皆そういう気持ちを持ってくれている方々です。
―テレビの中の生産者会議では理想と現実は違うという発言をされる方もいらっしゃいましたが、どうですか?
ハン:まあ人それぞれです。中には心から協力して下さる桑葉生産者の方もいらっしゃれば、桑葉を出す分には損にはならないという考えで協力してくれる方もいますね。色々ですけれど、たとえどんな方がいらっしゃっても自分の気持ちがぶれないことが一番大事なポイントだと考えています。
妻とも話をするのですが、例えばネガティブな方がいたとして、もし私がそれに影響されるとすれば、最初からこんな仕事はすべきでないと思います。もともとこの仕事をやっていく上で、どんなことがあっても、自分独りになっても私は未来のためにここで産業を作る、これを自分はやっていくという気持ちがあるから頑張っているので。だから理解する人や理解しない人が出てくるのは当然だと思うし、どんな仕事でもそれは同じだと思います。
―桑を10万本植える計画があると聞きましたが、地域の発展という点で、10万本の桑が植えられればどのように地域の活性化に繋がるのかなどその辺のことを聞かせて下さい。
ハン:桑の苗を10万本植える計画は2013年からスタートして5年かけて、2018年までにやる予定ですが、もし桑を10万本植えることができたとすると、荒茶(お茶の葉を蒸して乾燥したもの)が、50トンになります。
そうなると生産量では日本一になりますし、その畑を維持管理するためには当然人材が必要になります。自分の計算の中では20人から30人くらいは必要だろうと考えています。うちの会社では単なる畑の管理だけではなく、自分たちが管理した畑で得られた荒茶でなるべく差別化された商品を作って、商社と組んで全国展開していくことを考えています。
ですから畑の管理だけでなく、営業マンも増やしていかないといけません。それから便りとか雑誌など広報も充実させてどんどん社会に発信するためには編集部みたいなのも作らないといけません。総合的には100名くらいの規模で、特に若い人中心で5年後からはスタートしたいなと考えています。
そして更にその5年後、2023年くらいには500人まで増やしたいなと考えています。人を増やすということは、その人たちの生活圏が市川三郷町になるので、当然市川三郷町の人口が増える可能性が高くなり、中でも若い人を中心にやっていけたらと考えています。
更にその5年後には1,000人くらいの社員を目指していくわけですが、その中でこの10万本の桑の苗を植えるということは非常に意味のある活動なのです。それがこれから100人、500人、1,000人まで増やすという夢の出発点になるわけです。
―つまりそういう具体的なビジョンがあって若い人たちがたくさん来るという計画で地域がもっと発展していくということですね。
ハン:はい。
―今の生産者の年齢は70歳くらいと聞きますが。
ハン:70歳は超えていますね。平均年齢は74か75歳くらいではないでしょうか。
―そういう意味では今の状態で頑張っても5年後、10年後は先が見えないですね。
ハン:そうですね。そういった面もあって、これからは人材育成、桑を作るにあたっても商品を作るにあたっても、営業の技術においても人材を育てていかないと計画が前に進まないのです。そういう意味では本当に若い人が必要なんですよ。
―では若い人をどうやって呼ぼうと考えていますか?親が呼んでも地元に来ない現状があると聞いています。
ハン:それは今、県の方と色々話をしていていて、東京や大阪で農業に興味があって田舎暮らしをしたい人たちがいて、そういう人材を募集する場所があるのですが、そこでブースを出して紹介する予定です。実際、そのようなところから来たのがMさんだったりNさんです。彼らはまだ30代前半で、Mさんは独身で、Nさんは結婚していて夫婦でやっておられます。
―一人で田舎に出てきて農業ってすごいですね。
ハン:もともと田舎生まれの人が憧れるのは都会で、逆に都会生まれは田舎に住みたいみたいですね(笑)。
―韓国や他の外国からも人材を得たいと考えていますか?
ハン:もちろんです。自分の中では日本人でも韓国人でもどこの国の人でも関係ないですね。元気がよくて、夢があって、そういう人を中心にたくさんの家族を作りたいと考えています。
これからの世界っていうのは多分だんだん国境がなくなるはずです。私が子どもの頃は、海外に知り合いがいれば、「すごいなぁ」となったかも知れませんが、今では普通です。これがまた20年、30年、50年、100年もすればまるで隣の県みたいな感覚になる時代が来るのではないかと思います。
もちろんどんな国の人でもいいですが、やっぱり元気や夢がある人じゃないと厳しいと思うんですよね。
―楽しいだけではなく大変なこともきっと多いでしょうからね。
ハン:はい。やっぱり仲間とか家族とか友達とは、厳しい時に支え合って一緒に乗り越えてこそだと思いますし、実際逃げてしまう人もいますからね。
―最近テレビで都会の人が田舎で自給自足的な生活をする人が紹介されています。ダウンシフターズという言葉があります。ダウンシフトとは減速するという意味ですが、要するに物質的豊かさに対する追求をダウンシフトしても、より精神的な豊かさを大切にしていきたいといったような考え方を持つ人もいるようです。ただ現実問題として、その暮らし方で結婚して新しい家族を養うことができるのだろうかという疑問があるわけですが、その点について、例えば若い人が山保に来て桑畑で働きながら結婚して家庭を持って地域に定着できるかということについてはどう考えていますか?
ハン:非常に鋭い質問だと思います。やはり生活できないと何もできないと思います。今の社会で独身が増えているのも経済的な理由が大きいと思います。家族に責任を持てない人が増えているので、私はちゃんとした収入のあるちゃんとした仕事を作り出すことを目指しています。
例えば、私も夫婦が暮らす分には現状を維持すれば特に問題はありません。ただ、自分や自分の家族だけが生きられればいいという考えだけでは地域が元気を失ってしまうだろうし、ひいては社会や国がだめになってしまうのではないかという考えが私の中にあります。
ですから、やはり誰かがこういう仕事をしないといけないと思うのです。そのためにも個人の課題を乗り越えさせるためにも、誰が来てもここで家族を持ちたいと思えるような環境作りをしていきたいですね。もちろんまだそれができているわけではありませんが、私は必ずできると信じています。
―韓国人の夫が地域に溶け込むために奥様(三貴さん)の支えが大きかったと思うのですが、それについてはいかがでしょうか?
ハン:それはすごく大きかったですね。この人がいなかったら今までやってこれなかったでしょう。妻のことを思えば滝のように涙が出るくらいに(笑)。私はこれと決めたらそれに向かって猛烈に突き進むので、妻は毎日不安で仕方なかったみたいです。でも夫婦ですから、もしこういうところで理解をしてくれないと、もう既に離婚していると思いますよ(笑)。まあ、そういう点に関しては、まさに愛ですね。
―理屈抜きの愛情ですね。
ハン:あなたの生き生きする姿が見たいと言って毎日私を励ましてくれます(笑)。もちろん不安で泣いたり、二人で話し合うこともあったし、他にもいろいろとあるんですけど、間違いなく妻は私の一番の理解者です。
―素晴らしいですね。テレビ番組の紹介された三貴さんの話の中で、「主人が笑うのが大好きで、笑うのを聞いているだけで幸せになる」というのが印象的でした。。
ハン:私も日本に来て9年になりますが、この人がいなかったら私は来なかったと思います。それほど彼女の存在は大きいです。彼女がいたからこそ今の自分があると言っても過言ではありません。彼女の支えは自分がやると心を決めてガンガン仕事を進めていく隠れた力の源です。
―地域の方々もハンさん夫婦を見ながらそれを感じているようですね。三貴さんからも一言お願いします。
三貴:私自身は田舎に住むこと自体は好きなので、特に苦に思ったことはないです。外国人と一緒に暮らすということに関しては、突き詰めれば人間同士のつながりというか、同じ日本人でも、それぞれ考え方の違いがあるように、それがちょっと韓国と日本だったというだけで、そういう意味では別に外国の人と一緒に生活して大変だとは感じません。
ハン:でも最初はいっぱいあったよね(笑)。
三貴:それは韓国人だからっていうよりも、多分なんていうか個人的な性格の違いみたいな。
ハン:私が電車乗った時に平気で携帯電話で大きな声で話したりとかね(笑)
三貴:ああ、それはすごく気になりました!(笑)あんまりにも大きな声で電車の中でしゃべるので、すごく恥ずかしい思いをしました(笑)。よく「ちょっと静かにしてよ!」って注意していました。
ハン:ハッハッハ!(爆笑)
三貴:でも田舎に来ればみんな声が大きいのでそんなに気にならなくなりましたけど。
―この地域はお年寄りの方が多いですが、そのような環境に入って行くのに抵抗はありませんでしたか?
三貴:山間の村は結構閉鎖的で、周辺のご家族の名字が全部同じというところに一家族だけ違うのがやって来たという感じだったので、最初はよそ者に接するような雰囲気がありましたし、いつも見られているような気がしました。
例えば何時に電気が消えたとか、誰が訪ねてきたとかそういうのも噂になって皆知っているみたいな。最初はなんでそこまで干渉するのかと思ったりしましたが、今は逆にそれが居心地よく感じています。もしお年寄りだけで住んでいる場合、姿が見えなかったら具合が悪いのではと心配したり、誰かが訪ねてきたら誰が来たのかと聞いたりするのも、みんながお互いに関心を持って意識し合っていることだと考えれば逆にいいことだと感じるようになりました。
―まるで村全体が家族みたいですね。
三貴:あと年齢が70歳、80歳の方が多いので私なんか孫くらいの年齢です。そういう意味ではすごくかわいがってくれていると実感しています。年に何回かある村の春祭りや秋祭りには必ず参加するのですが、いつも「ハンさん、ハンさん」「三貴ちゃーん」って、とてもかわいがって下さいます。
―ここは学校の運動会も祭りみたいな感じですね。
三貴:そうですね。地域ぐるみの運動会ですね。
―あれを見たときは驚きましたね。子どもは少ないのに、「老人会の皆さんです」と言ったらまるでパレードみたいで(笑)
三貴:(笑)子どもたちだけだと疲れるので、親たちの方が出るのが多かったりしますね。でもそういうイベントで一年に一度皆が集まって子どもたちの成長を村全体で見守っているような感じがすごくいいと思います。
―ご主人がお話して下さった桑を10万本植える計画や将来の規模拡大のことなどについて三貴さんはどのように考えていますか?
三貴:主人がやることは全部支えていきたいし応援していきたいですね!心配もありますけれども、主人が希望に溢れています。今までもいくら大変な状況があっても後で考えてみると、それがあって逆によかったと思えることが多いです。私がいろいろ心配して「それはしない方がいい」と言ったことでも、主人がすごく前向きに進めていったおかげで、いろんなことが結果的に整ってきているので、それによって人が惹きつけられて応援して下さっているというのを感じます。
私としては会社の経理も担当しているのでお金のことでとても心配しますけど、彼はいつも「心配しなくていいから、ついてこい!」みたいな感じで(笑)。そう言ってくれるので私も信頼してついていくようにしています。また、本当に村の皆さんに応援されて支えられて今があるというのはすごく感じています。
―お二人が来られる前は村にはお年寄りばかりだったわけですよね?
三貴:そうですね。養蚕もしなくなって桑畑も使わなくなって荒れ放題というのが現状でしたね。もともとこの建物(桑茶会社)も農協の建物でほとんど使われていませんでした。
ハン:7、8年は空いていたみたいですよ。
三貴:もともとここは農家全部が養蚕農家で、農協がその養蚕の取りまとめ的な場所だったのですが、養蚕が廃れるとともにあまり必要がなくなってきて使わなくなったみたいです。
―そこへお二人が桑茶を始めて桑の葉を買ってくれるとなると、村にとってはうれしい話だったでしょうね。
三貴:そうかもしれませんね。でも村の農家の方は本当にお年を召されていて、農作業がえらい(大変だ)と皆言っていて、これ以上やるのが難しいとおっしゃる方も多いです。私たちがもっと早くこれを始めていたらと思うこともありますね。
―そうですか。今日はいろいろとお話ししていただいてありがとうございました。
この事例のポイントは、
①普通の日本人では考えられないハンさんのビジョンと発想が、日本の典型的な過疎化した村に大きなインパクトを与えた。
②専門家にも関わってもらい、現実的な事業計画をもって進めている。養蚕の将来に悲観的だった専門家も希望を感じるようになっている。
③閉鎖的だったコミュニティもハンさんの人柄と本気さに触れて、協力するようになった。
④ハンさんと奥さんの三貴さんの信頼関係がこの取り組みの土台となっている。
といったことが挙げられます。
停滞した社会の変化は、「境界人」(marginal person)や「周縁人」(peripheral person)と呼ばれる人びとによってなされることが多いですが、在日外国人が閉塞感のある日本社会をブレイクスルーさせるキーパーソンであることを改めて認識させてくれたのではないでしょうか。
<山梨県峡南農務事務所臨時職員・山本亨さんのインタビュー>
市川三郷町山保地区で桑の葉茶製造が地域活性化につながると信じ挑戦する韓国人のハン・ソンミンさん。既存の農家から桑を買うだけでは量に足りないため、自ら桑栽培を始めることになりました。そんなハンさんに桑葉栽培の技術支援をする山梨県峡南農務事務所の臨時職員の山本亨さんに話を聞いてみました。
―山本さんとハンさんが出会ったきっかけを教えてください。
山本:ちょっと昔に蚕の専門の仕事の関係で神奈川にいたのですが、たまたまここに来て偶然ハンさんと知り合ってから一緒にやっているという感じです。桑栽培のことは、少しは私の方がわかっているかなと思うんですけど(笑)。
―市川三郷町というのは、昔から桑畑、いわゆる養蚕が中心的な産業だったわけですが、最近は価格の問題や生産者の高齢化しているということを聞いたのですが、現在は養蚕をされている方はいらっしゃらないのでしょうか?
山本:山保地区では1軒しかやっていません。 隣の富士川町でも大きくやっている方が一人おりますが、山梨県でも10数件になってしまったと思います。
―以前は何百という養蚕農家があったわけですよね?
山本:ええ。昔は農家のうちのほとんどが養蚕農家でした。昭和初期から中ごろにかけてはこの辺一帯も見渡す限り桑畑で、山保も桑の郷だったわけです。
養蚕の場合には蚕を飼って、繭(まゆ)を作らせる、そして繭から先は製糸業者、1年間倉庫に保管しておいて1年中繭から生糸を引いて一本の生糸の塊を作っていく。その生糸を織物会社に出荷して織物会社はそれで生糸製品、ネクタイとかスカーフとかを作るという形なのですが、国産の繭を作るのに見合う産業としての基盤がなくなってしまったわけです。以前より外国に押されて今はほとんど中国からのもので日本の生糸はまかなわれています。
それで養蚕農家はなくなってしまって、今の残っているのは国から価格保証を受けています。ここ数年ではいわゆる繭から生糸、生糸から製品と一連の流れのあるグループだけに補助金を出しています。ですから山梨でもそういうグループにだけ補助金が出るようになっているため、一般の農家はやりたくても参入できないという状況です。
―では山保にある1軒というのも。
山本:はい、そこも一つのグループになっていて、かろうじて生き残っているというところです。
―しかし、桑畑自体は養蚕が終わっても存在しているんですよね?
山本:ええ、桑はもともと永年作物で20年、30年は平気で持つのですが、養蚕はやらなくなったけど桑畑は残っているという農家が何軒かあって、山保地区でもかなりありまして、その桑をそのままにしておくと、荒廃地になってしまうのです。
ですから、桑畑を元養蚕農家に管理していただいて、従来は蚕のエサとしてあげていたものを食品というかお茶として加工するために材料を買い上げているわけです。今までそのように元養蚕農家から桑の葉っぱの提供を受けていたわけですが、桑茶の生産拡大ということでそれでも足らないので今度は自分自ら桑畑を作ることになりました。
―つまり新しい需要が出てきたということですね。
山本:むこうの山の斜面にも畑が見えますが、むこうとこちらを合わせて1.5ヘクタールくらい。もともと荒廃地になった土地を借りて畑を作ったということです。雑草どころか木が生えているような状態で、業者が入って重機を使って地上のものは全部取ってという形です。
―桑というのはどれくらいしたら生産できるようになるわけですか?
山本:今年植えて、今年なら9月下旬か10月上旬に1回だけ収穫します。
―収穫というと上の方の新芽だけを取るわけですか?
山本:今年は雨が少なくて伸びが悪いのですが、これがずっと伸びてきて予想では約1.5メートルくらいになります。それを下から大体70センチくらいのところで切る形です。今年は1回だけ収穫ですが、来年からは春先にこれが株になるのですが、それがまたずっと伸びてきたものを7月に採ります。そしてまたずっと下から伸びてきて9月末か10月に採れるので、要するに年に2回収穫できるということです。
―実際今の桑畑で働いていらっしゃる農業従事者の方が高齢化されているというのは本当ですか?
山本:そうですね。おそらく60代後半から70代、80代くらいです。
―その方々のお子さんたちというのは都会に出ていらっしゃるわけですか?
山本:はい、農業には従事していないですね。残念ながら…。
―その理由についてはやっぱり農業ではやっていけない、生活が大変だからというものでしょうか?
山本:そうですね。でももしハンさんの会社で規模拡大が進んで地元で作った桑を原材料として買い上げるということになれば、仮に今お勤めされている方もいずれは定年になるわけですから、山保の地元に親の自宅もあるわけですし、Uターンして帰ることもできます。60代と言えばまだバリバリ働けますので農地を保全する意味でも、桑を作って売ることもできます。ハンさんも山保を中心として市川三郷町を元気にしようと頑張っているので、まわりからも注目されています。
―一方で日本の若い方の中にハンさんのように自分が地域の面倒を見ようじゃないかというような人はいないのでしょうか?
山本:なかなかいません。自分の経営ということで考えている方はいますが、地域という目で、山保ひいては市川三郷町の中で、もともと養蚕発祥の地で桑茶を中心に地域の活性化をしようとまで考えている人はなかなかいないものです。その辺がハンさんは普通の日本人の性格とは違って思い切ったことができるというか、発想が大きいというか、夢が大きいというかですね。
―働き手がいない農家に農業就業者を受け入れるようという動きはありますか?
山本:農業協力隊制度とか、若い方で農業に興味があって経営者として自立してやるという人を育てる制度はあります。例えば奨学金制度や立派な経営農法をされている方のところに1年間研修に行って、その間の住まいと給料の一部を県で支援する制度はあります。
―しかし土地にしっかりと腰を下ろしてやっていくという人がいないことには10年後、20年後の先が見えないということですね。そういう観点からするとハンさんはもともとここに住んでいる方ではないのに、ここに住んでやろうとしているのは稀な例に含まれますよね?
山本:この地区にこだわっている理由というのがもう一つありまして、養蚕の桑には400種類くらいの品種があって、その中で日本の養蚕に一番使われているのが「一瀬(いちのせ)」という品種で、実はその「一瀬」という品種の発祥が市川三郷町なのです。一瀬益吉(いちのせますきち)さんという農家の方が購入した苗の中から発見して個体選別して、それが一瀬という名前で全国に広まりました。ピーク時は8割以上の桑は一瀬だったと思います。非常に良質な品種で蚕のためには良い桑だということなのですが、その母樹が町内にあるのです。その意味でも、ハンさんが市川三郷町にこだわっているのには理由があるわけです。
―ハンさんは文化的な違いによる苦労はされたのではないですか?
山本:かなり苦労はされたようですよ。でもその熱意と意気込みで今でも20軒近い農家から桑の葉っぱを購入していますが、皆地元に定着している人たちで、もともと辞めようと思っていた桑畑をハンさんがやるというのならこれからも管理を続けようと、今では協力しようという人の方の方がむしろ多いです。それでもやはり最初は苦労されたようです。
―ハンさんからすれば文化も違う外国で信頼を勝ち取ってきたということですね。
山本:そうです。その辺については本当に人間的にも魅力があって奥さん共々、地元の人たちに愛されています。もちろん行政もバックアップしていますが、基本は本人たちの気持ちが周りの人に理解されるかどうかですから。農地は5年とか10年とか契約を結んで借りているわけで、地権者の同意がなければ土地も借りられませんし何も植えられません。
―土地の所有者の立場からすれば、放置しておくよりは農地として使用してもらった方がありがたいわけですよね?
山本:もともとは、ものすごい荒廃地だったのですが、これをきれいな畑に戻しているので地権者の方にとってもいいですし、仮に全部返してくれとなった場合には全部桑を抜いてお返しすればいいわけです。荒廃地といっても萱(かや)や篠(しの)やススキは人間の背丈の2倍だった状況だったので、荒廃農地を解消するという意味だけでもやるだけの価値はあります。ここはの畑は比較的平地ですが、むこうは傾斜地で作業が大変なんです。今年2万本植えて、来年も2万本近い苗を植える予定です。おそらく、これだけの本数を一度に植えるのは日本にはほとんど事例がないと思います。既存の桑畑である程度まとまった量があるのはありますが、新たにとなると初めてといえます。
―養蚕や桑栽培の専門でいらっしゃる山本さんからするとうれしい話ですね。
山本:うれしいことです。私も最初話しを聞いたときは、多分、1~2反(約1~2千㎡)、植えても2~3千本だと思ったのですが、一度に2万本と聞い時にはびっくりしました。日本人だったら、様子をみて、うまくいけば少しずつ増やそうというのが普通の考え方ですが、一度にこれだけの量ですから。
昔は桑苗業者が日本全国にあって、特に、栃木、群馬、埼玉にはたくさんあったのですが、今では、栃木と群馬に数件残っているだけで、それも、桑茶のことを念頭において見込みで作っているだけです。
山梨は80数万人口の過疎の県で、山合いは過疎の村があります。そういう中で、かつての基幹産業であった養蚕の一部だった桑畑が広がっていくというのが驚きです。桑畑を作って材料を提供する農家としてUターンが出てくるのも一つの期待ではあります。もちろん若い人がやってくれれば一番いいですが、地域の過疎が進まないで桑畑に限らず農業をやっていこうという方が地域に根差してくれれば非常にありがたいと思います。
―耕作地や農業を守るための復興や再生には多くの社会的なコストがかかり、実際どこの地方自治体でも資金がかさむ問題だと思うのですが、大きな社会的コストをかけても農業を守るべき理由というのがもしあるとすればどのようなものなのでしょうか?
山本:農業の中で一番問題になるのは、荒廃農地が増えると、荒廃農地が耕作地に影響を与えるということです。そのため荒廃農地を解消するためにおそらくどの県でも力を入れていると思います。
もう一つは鳥獣害の問題です。荒廃地が増えると鳥獣のすみかになって、鳥獣被害が増えるという問題があります。そのため荒廃農地を全部解消するのは無理だとしても、何らかの形で増えないように、一定のいわゆる畑作地帯という形で維持することを考えないと全部がだめになってしまうのです。
また、ハンさんのようにまとまった農地が必要な場合、土地を確保しようと思ったら荒廃地を借りてそこをきれいな状態にしてものを作るしか方法がありません。まとまって規模拡大を図ろうと思ったらハンさんのような個人にしても農業生産法人のような大きな組織にしても農地の確保というのは難しいわけです。山の上に荒廃地があるといっても、そこまでの交通手段や鳥獣害のリスクを考えると、まとまった土地を確保する方法はなかなかないわけです。
―今日はいろいろと教えていただいてありがとうございました。
<長田栄子さん(74歳)インタビュー>
ハン・ソンミンさんの桑茶会社に桑の葉を提供していた生産者の中でも一番の出荷量だった長田英俊さん。50年以上も養蚕農家として働き、ハンさんに専門的なアドバイスもしていました。その長田さんが2011年に75歳で突然他界されました。一人暮らしとなった妻の長田栄子さんは桑栽培をあきらめ、畑を放置しようと考えていました。しかし、ハンさんは、お世話になった長田さんの桑畑の手入れを引き受け、長田栄子さんを継続して支えてきました。
―長田さんが最初にハンさんに出会った時の印象はどうでしたか?
長田:うちのお父さんも仕事辞めて大工していて、それでたまたま近隣の人が桑の葉をハンさんの会社に提供していて、じゃあうちも入れてもらうかという時に、このハンさんと出会いました。また面白いんですよね(笑)。最初に会った時から私はすごい青年だと思いました。
目上の人をすごく大事にするのです。20年も前の昔の話ですけれど私と主人で韓国に旅行に行った時に、韓国の若い人は目上の人をとても大事にするという話を聞きました。それでやはりハンさんも目上の人を大事にする人でした。私たちに出会った時は既にこの山梨のしきたりというか風習にすごく馴染んでいて、日本のことわざや山梨の方言もできるし、本当に大した人だなと思いました。
ハンさんはうちに来るのをいつも楽しみにしてくれました。それで桑摘んで持ってってもらったんだけど、お茶を飲んだり、奥さんも来てくれてね。とにかく面白いのよ、冗談もよく言うし。私たちがハンさんの会社に行った時は、車寄せもやってくれました。「お母さん、お昼食べてきな」って感じで言ってくれますし、ご夫婦で本当にいい人たちですよ。そんな出会いでかれこれ4年になりますかね。
―ハンさんが市川三郷町に来て雰囲気は変わりましたか?
長田:そうですね。最近は取材の人も来て、子どもたちもテレビに映るからと出てきたり、新しく農業を始めた青年もやってきたりして変わりましたね。
―少しずつ若い人も増えているということでしょうか?
長田:やっぱり若者が入ったということで活気が少しは違いますね。村で人手が必要な時は「お願いこれやって」って年寄りは頼めますからね(笑)。
―先ほど畑を見せていただきましが、あの畑をハンさんが管理されているわけですね?
長田:そうですね。前はうちの主人とか私も摘んでいましたけど、私も怪我をしてしまって、怪我をしてしまうと畑も歩けませんからね。
―勾配がとてもきつい畑ですよね。
長田:とても危ないので桑摘むのはやめて山にしてしまおう(畑を放置して自然に戻すこと)と思っていたところに、ハンさんが俺が借りてやるからって言ってくれました。
―それを聞いた時どう思われましたか?
長田:私ももう諦めていたんです。お父さんがいないと桑は摘めないし、ハンさんだってこの畑を自分で手入れするなんてことは大変なので、さすがに無理だろうと思ってこの畑をどうするか子どもとも相談していました。でもハンさんがやってくれることになって本当によかったです。
―やっぱり山にするより畑のまま維持する方がずっとうれしいですよね。
長田:そうですね。私が畑に行った時に山になってたら、お父さんがいなくなったせいで畑がこうなってしまったと自分が惨めな気持ちになってしまうでしょうけれど、ハンさんが来てくれることで桑の成長を見るのが楽しみです。
―実際誰も手をつけなくなると桑はどれくらいで山になってしまうものなのですか?
長田:蚕をやっているときはこの時期(6月)に全部切って、また伸びたものを9月にまた切るのでそんなに長くならないですけど、このまま置くと1年でも本当に長くなりますね。
―一度そうなってしまうと元の畑に戻すのは大変でしょうね。
長田:それをハンさんがやってくれたんですよ。畑を荒らしておいても仕方ないのに、私は何もいらないと言っているのに、ハンさんは桑が取れたらきちんと謝礼を届けに来て下さいます。
―ハンさんからお手紙を受け取ったと伺いましたが。
長田:そうなんですよ。この前、来た娘が持って行ったんですけど、あの手紙がうちの子どもに人気なんですよ。
―テレビで紹介されたあの手紙ですね。私も手紙を拝見してとても感動しました。
長田:ハンさんがテレビでお父さんのことを「山梨のお父さんです」と言ってましたが、うちの子どもが「じゃあ、私とハンさんは義兄弟だね」って言ってました。
―本当に家族みたいですね。
長田:そうですね。ハンさんがいてくれて本当にうれしいです。なんかお互い言いたい放題で(笑)みんな地域の人と仲が良いですよ。
―今日は、貴重なお話を聞かせて下さり、ありがとうございました。