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【インタビュー:多文化をチカラに②】 ポソ・ロドリゲス・ミゲル・アンヘルさん(会社員/サッカーコーチ/演歌歌手マネージャー)2022.07.25 | 

My Eyes Tokyoの協力のもと、日本で活躍する外国にルーツを持つ方々へのインタビューを紹介していきます。
https://www.myeyestokyo.jp/59442

”紳士”と呼ぶにふさわしい方に、私たちは出会いました。

前回私たちがご紹介した”フィリピン人初の演歌歌手”ヨランダ・タシコさん。彼女とのインタビューの前日に、ヨランダさんに聞かれました。「明日は付き人を連れていきますが、大丈夫でしょうか?」。そして当日、ヨランダさんと一緒にJR上野駅中央改札前に現れたのが、今回ご紹介するポソ・ロドリゲス・ミゲル・アンヘルさん(ボリビア出身)です。

上野公園で私たちが撮影場所を探していた時、ポソさんが公園内を駆け回り、蓮の葉で敷き詰められた美しい不忍池を一望できる素敵な場所を見つけてくれました。インタビュー後にランチをいただきながら談笑していた時も、ヨランダさんの飲み物が無くなる前にドリンクバーへと走るなど、常に気配りの姿勢を見せていたポソさん。彼のことをもっと知りたいと思った私たちは、その場でインタビューを申し込みました。

そして6月下旬、久しぶりの再会。季節外れの猛暑で撮影機器に異常が発生し、それにより取材が長引いたにも関わらず、ポソさんは終始穏やか。しかもインタビュー終了後に”男の手料理”を振舞って下さいました(その写真もこの記事でお見せします!)。 そんなジェントルマンなポソさんとのインタビューは、意外なご経歴のお話から始まりました。

”愛の力”で未知の国へ
製造業全般に向けた部品加工会社に約18年勤務しています。その前はハローワークで見つけた自動車部品リサイクル会社に4年間勤めていました。これらに共通しているのは、ものづくり。私は小さな頃から手を動かすのが好きで、自宅のリフォームも自分でやってしまったほどです。

一方で、仕事以外の活動にも取り組んでいます。子どもの頃に母国で始めたサッカーは今も続けていますし、外国人市民支援団体「川崎市外国人市民代表者会議」で、ボランティアとして2期4年、川崎市に住む外国人の声を行政に届ける活動をしました。

そんな私が日本に来た直接のきっかけは、日本人である元妻との出会いです。

当時私は、海軍士官学校の教官でした。私の兄弟が軍に所属していたこと、元々スポーツなど体を動かすのが好きだったこと、安定した公務員職であることから、軍での仕事に興味を持ちました。一方で元妻はJICA(国際協力機構)の職員としてボリビアに赴任していました。軍が一般市民に開放していた、基地内の保養施設に彼女はよく来ており、そこで私と彼女は出会いました。

海軍に所属していた頃のポソさん(左から4人目)

私はそれまで、日本についてほとんど知りませんでした。昔ボリビアではテレビドラマ『おしん』が放送され大人気でしたが、それが私がボリビアで見た唯一の日本の姿。軍が私を高く評価してくれたおかげで、南米の他の国やアメリカなどで学ぶ機会に恵まれましたが、日本を含むアジアは地理的にも文化的にも遠く感じたため「アジアにだけは行きたくない」と思っていました(笑)。でも彼女との出会いがきっかけで、私は軍のトップに直接伝えました。「アジア、それも日本に行きたいです」と。愛の力はすごいですね(笑)

こうしてやって来た日本。かつて私が『おしん』で見た風景とは全く違っていました。食文化も、お米を食べるという点ではボリビアに似ていたものの、味の無いお米を食べることなど無く、必ず味付けしてから炊き込みます。だから日本に来て食卓に白いご飯を出されたとき、口に入れても飲み込むことができず、むしろ吐きそうになったほど(笑)。納豆も「なぜ豆を腐らせるまで食べるのを我慢するのだろう」と不思議に思っていました(笑)今はどちらも美味しくいただいています。


慣れた手つきでボリビアの郷土料理”ピケマチョ”(Pique macho)を作ってくれました!

「給料を返せ」
日本では船舶入出港に関する業務を学ぶ予定でしたが、その前に日本語を勉強する必要がありました。当時、彼女と住み始めた川崎市では週1~2回、外国籍住民向けに無料の日本語教室を開いており、そこで勉強するようになりました。

やがて私は、その女性と結婚。「3年間の日本滞在期間が明けたら、一緒にボリビアに帰国しよう」と彼女と決めましたが、その間に長男が生まれたり、私自身が病気になったりしたため、軍に退職を申し出ました。しかし軍から「あなたはボリビアを代表して日本に行ったのだから、ボリビアに帰ってこなくてはならない」と言われました。療養や帰国準備のために2年間の滞在延長を許してくれましたが、その間に長女が誕生。そこで再び退職を軍に申請しました。

軍に所属する者は、ボリビアでは国家公務員。国民の税金からお給料をいただいている身として、最低でも10年間は辞めてはならないという規則がありました。しかし私の勤続年数はその条件に達していなかったため「軍を離れるなら、それまで支払っていた給料を返してほしい」と言われました。それでも私は日本に残ることを選んだ。家族を守ることへの決意は、それほどまでに堅かったのです。

日本で生きていくために、私は仕事を探し始めました。自動車部品のリサイクルを行う会社の求人をハローワークで見つけて応募。当時は日本語がほとんど分からなかったにも関わらず、それまで外国人社員がゼロだったその会社が私を受け入れてくれました。私は工場で働きながら、休憩や昼食など空いた時間に日本語を勉強。川崎市が提供する無料日本語教室での勉強も続けたおかげで、読み・書き・会話すべてできるようになりました。今も日々、仕事や生活を通じて新しい言葉を学んでいます。

サッカーが救ってくれた
異国の地で私を助けてくれたのは、もうひとつあります。それはサッカーです。子どもの頃に始め、小中高、それに軍の大学での選抜チームに所属し、大会に出場。大人になってからも、そして日本に来てからも続けています。その後、私の長男が通っていた小学校にサッカーチームが出来、入部した彼の練習を見ているうちに、そのチームのコーチとして、プレーヤーから指導する立場へと変わりました。

一方職場では、環境としては悪くなかったものの、意見の食い違いから時々上司とぶつかっていました。今思えば、当時の私の言語能力や、日本文化への理解度が不十分だったことも、その原因でしょう。そんな時、社会人チームで共にプレーしていた人から「ウチに来ませんか?」と言われました。それが今も勤務している会社です。

やがて元妻と、あることが原因で別れることになりました。この時も、サッカーを通じて仲良くなった人が私を助けてくれました。元妻との離婚調停中、難しい法律用語が大きな壁に。裁判で相手側から私に向けられた質問の意味が分からず、それでも「はい」と答え、結果として私が伝えたいこととは逆の意味に受け取られてしまったり…一人で抱え込んで精神的に追い込まれ、全てを諦め放り投げようと思った時、彼が「あなたは一人じゃない。困った時は私に声をかけてください。協力します」と言ってくれた。その言葉は今でも忘れられません。「サッカーをやっていて本当に良かった!」と思いました。

「自分が住む地域の人たちと触れ合いたい」という思いから社会人サッカーチームに入り、「自分が住む地域の役に立ちたい」という思いから少年サッカーチームのコーチをしている。私の中には「自分ができることを通じて、日本で生活させていただいていることへの恩返しがしたい」という思いしか無く、見返りは一切求めていません。それでも近所の子どもたちやその親御さんたちが私に「ありがとう」の言葉をくれる。それが私にとって本当に嬉しいことなのです。

ポソさんが所属する社会人チームの紅白戦。元奥様のご同僚からの紹介で当チームに入部した。2列目の左から4人目がポソさん、ポソさんの左隣が娘さん、2列目左端が息子さん


私は”橋”になりたい

今年(2022年)2月まで、私は地元の外国人支援団体である”川崎市外国人市民代表者会議”で4年間活動していました。自宅のポストに入っていた、その団体のお知らせを見たことがきっかけです。「私を外国人として認めてくれている川崎市のために、外国人と日本人をつなぐ存在になりたい」という気持ちが湧き上がってきました。

私の場合、日本人である元妻が書類を作成したり、通訳として動いたりしてくれたおかげで、日本語がほとんど分からなかったにも関わらず、ハローワークで見つけた仕事に就くことができました。非常に恵まれていたと思います。

しかし一方で、外国人同士で結婚したケースでは、言語スキルが十分で無いために、子どもが学校に入る時や、自分たちが医療を受ける時などの手続きで不利な状況に立たされる人がいると聞きました。また単身者であっても、言葉が分からないために仕事を見つけられなかったり、仕事に就いても給料がきちんと支払われなかったりすることがあることを知りました。

そのような人たちと日本人をつなぐ橋となるために、私は川崎市外国人市民代表者会議に参加しました。市から出ているお知らせを翻訳したり、市が一般公開している資料の内容がきちんと外国籍住民に伝わっているか確認し、必要に応じて改善を提案したりしました。”3期以上活動を継続するには、1期空けなければならない”という規則により、今は1期2年間のお休みをいただいています。


日本があなたのために何ができるかを問うのではなく あなたが日本のために何ができるかを問う

この団体での活動を経て私は「外国籍の人たちには”誰かの力になりたい”という意識を持ってほしい」と願うようになりました。

私たち外国人は「日本に○○をやってほしい」と要求し、それが果たされないと文句を言う傾向にあります。しかし日本は、実際には私たちのために様々なことをしてくれています。それらに応えるべく、ボランティア活動などへの参加を通じて、私たちが今住んでいる地域にお返しをする。そうすれば、母国と異なる環境でも気持ち良く生活を送ることができると思います。

私は、自分が好きなサッカーで地域に入り込んでいきました。そのおかげで私の子どもたちは、彼らの父親である私が外国人であっても、虐められることはありませんでした。自分から地域の人々と交われば、彼らも自分に敬意を持って接してくれるようになるものです。

今はまだ、私がコーチをしているチームに外国籍の子どもはいませんが、もしいたら、私は言います。「君は他のみんなと同じだよ」と。そうやって自信を持たせれば、他の子と同じように頑張ってくれるでしょう。それと同時に、他の日本人の子どもたちにも「その子も君たちと同じだよ。君たちの仲間だよ」と伝えたいと思います。


家族を愛そう

最近はコロナウィルスのために母国への帰省ができずにいますが、以前は3年に1回必ず私の家族全員で帰国していました。それは両親が生きている間に少しでも楽しませてあげたいからです。

私の国では、何かおめでたいことがあると、子どもたちが両親のもとに一斉に戻る習慣があります。私たちはたとえ週末だけでも、家族集まってワイワイしたいと思うもの。一方で日本では、子どもが大人になったら、彼らは家族から物理的にも精神的にも離れてしまうように、私の目には映ります。その状況を”改善すべき”というよりは、ただ家族を大事に思う気持ちがあればいい。そうすれば、高齢者を含めたあらゆる世代の人たちが一緒になって、より楽しく生活できるのではないかと思います。

一方で親御さんに意識してほしいのは「子どもたちを愛することと、いつまでも自分のそばに置いておくことは、全く違う」ということです。大事なのは、彼らが”羽ばたく”ことができる環境を提供すること。私自身、家族を離れ故郷を出て遠く日本に行きました。両親に寂しい思いをさせてしまったでしょう。しかし彼らは一方で「自分の家族に対して責任を持つべき」という考えを持っている。だから「あなたが選んだ相手や、その人と築いた家族を、きちんと守りなさい」という言葉で私を日本に送ってくれたのです。

子どもたちが本気でやりたいと思うことを存分にさせてあげることで、彼らの中に親への感謝の気持ちが生まれる。その気持ちがあれば、離れ離れになっていても親の元に戻ったり、一緒に生きていこうと思ったりするでしょう。私の子どもたちには、お母さんの存在もリスペクトしながら、幸せになってほしいと思います。

私は残念ながら妻と離婚してしまい、家族を守るという務めを十分に果たせなかったという悔いは今も残っています。しかし今は、子どもたちが私に力をくれる。彼らが私にとって一番の宝なのです。

愛する子どもたちと共に


ポソさんにとって日本って何ですか?

”安全な国””安心して生活できる国”です。
私は日本にとてもお世話になっている。だから日本に大変感謝しています。

安心して生活できる国 – それは日本だと、私は思っています。

 

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