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【インタビュー:多文化をチカラに④】 リノ・センレワさん(カフェオーナー/バリスタ/カフェコンサルタント)2022.09.09 | 

My Eyes Tokyoの協力のもと、日本で活躍する外国にルーツを持つ方々へのインタビューを紹介していきます。
https://www.myeyestokyo.jp/59750


外国人だって日本で何かできる。できないことは無い。それを僕は証明したい。

ついに、この人にじっくりお話を聞くことができました。

My Eyes Tokyo編集長の徳橋が、とあるPRプロジェクトに参加した2020年10月。千葉県松戸市、松戸駅近くにある古民家カフェに取材に伺いました。インドネシア人男性リノ・センレワさんが切り盛りする、こじんまりとしたインドネシアコーヒー専門店「マハメルコーヒー」。注文を聞き、コーヒーを淹れながらお客さんに話しかけたりと、1秒たりとも動きを止めないリノさんは、空気を読まず投げかけられる徳橋からの質問にも丁寧に答えてくれました。

お店を閉める頃、徳橋が運営するMy Eyes Tokyoについてリノさんに伝えました。すると彼はこう言ったのです。

「僕、このサイトをいつも見ています!」

徳橋は嬉しさのあまり、リノさんにインタビューを申し出ました。ご快諾いただくも、その後お互いが多忙となり延び延びに。ようやくインタビューが実現したのは、古民家から約200メートルほど離れた場所で新装開店した2022年8月。約束した日から約2年が過ぎていましたが、お店のドアを開けると「久しぶりですねー!」と、あの頃と同じように元気な声で迎えてくれました。

プレオープンを経て一般向けに開店したその日、たくさんのお客さんに新たな船出への祝福を受けたリノさんが語ってくれた自身の半生は、これまで出会った人たちへの感謝に満ちあふれていました。

*インタビュー@マハメルコーヒー(千葉県松戸市)

まずはインタビュー前に1杯。暑い日にぴったりの「水だしアイスコーヒー」です

コーヒーの前ではみんな同じ
このお店の名前に入っている”マハメル”は、インドネシアのジャワ島にある山の名前。このカフェを始める前、僕は妻の実家のあるジャワ島でコーヒー農園の経営を始めました。ちょうど義理の家族がコーヒー農園を持っていて、それを僕が買い取ったのです。それが僕が初めて自分で起こした事業だったから、農園がある場所にちなんだ言葉をカフェの名前に入れました。

僕は3歳の頃からコーヒーを飲んでいるくらい、コーヒーに親しんでいます。でもそれはインドネシアでは珍しいことではありません。インドネシア人はコーヒーを愛しすぎて赤ちゃんにも飲ませるほど(笑)しかも家にお客さんが来た時は、その家族で一番年下の子どもがコーヒーを用意します。そうなると必然的に甘いコーヒーになりますが、それでOK。むしろインドネシアには、ブラックコーヒーを飲む習慣はありません。僕も日本に来てからブラックコーヒーを飲むようになりました。

コーヒーは”あらゆる人たちの心をつなぐツール”だと思います。なぜならコーヒーは、全ての人たちを平等に扱うから。お金持ちの人にとっても、そうでない人にとっても、苦いコーヒーは苦く、甘いコーヒーは甘いですよね。だからこのお店に来たら、偉い人も普通の人も、みんな同じ。差別や区別はここにはありません。このお店を一歩出たらすごい人でも、中ではみんな一緒。ここはそういう場所なのです。

走り屋を変えた”ハッピーセット”
日本に来る前、僕は”走り屋”でした。インドネシアのメカニック専門学校に通いながら車やバイクの整備士として働き、仕事が終わった後に自分のバイクを改造して走って楽しむような少年。でも、やがて考えるようになりました。「俺は何で仕事をしているんだ?何で走っているんだ?」と。他人のバイクを修理したり改造したりして、一体自分に何の得があるのか。それどころか、改造してスピードが出過ぎてしまったら、乗っている人の命が奪われてしまうかもしれないですよね。

だから僕は「自分の人生をリセットしよう」と決めました。ちょどその頃、すでに日本人男性と結婚して茨城県に住んでいたおばあさんが僕に「日本に遊びに来ない?」と声をかけました。一旦インドネシアを離れて、全然知らない場所に行けば、もう一度人生をやり直せるかもしれない – そんな期待を抱いた僕は、二度と車やバイクのエンジンに触らないと決め、メカニック業から足を洗い、2002年に日本に来ました。

初めて日本に来た時、僕が唯一できたこと。それはマクドナルドで”ハッピーセット”を注文することでした。日本語が出来なくても「ハッピーセット!」と店員さんに言えば通じるし、しかもハンバーガーにおもちゃまで付いてくる。このおもちゃをインドネシアに持って帰ったら、みんな大喜びしてくれました。彼らの笑顔を見て、僕までハッピーになりましたね。だから僕はマックにすごく感謝しているし、彼らの食べ物をジャンクフードだなんて思っていません。今も時々マックに行きますが、ハンバーガーを噛んだ瞬間、あの時代を思い出して涙が出ます。

ただ正直言って、初めて来た日本には、それほど良い印象を抱きませんでした。真面目で冗談ひとつ言わない、こちらから話しかけない限り近づいてこない日本の人たち。だから3ヶ月ほどでインドネシアに帰りました。でもたった1回の来日だけで日本という国を判断したくなかった。「日本をつまらなく感じるのは、俺がダメなのか、日本人がダメなのか?」それを見極めたいと思ったのです。日本人が真面目で堅いなら、僕が柔らかくなればいい。その後も観光ビザで日本に来ては3ヶ月ずつ滞在し、試行錯誤を繰り返しました。3度目の来日でようやく日本での生活を楽しめるようになり、4度目で「日本に住もう」と決めました。

インタビュー中に2杯目をいただきました。これからの季節にはホットの「マハメルブレンドコーヒー」が合うでしょう

「人間になりたい」
僕はインドネシアに帰るたび、ハッピーセットのおもちゃを何百個と持って帰りました。その様子を見た、インドネシアにいる僕のおばあちゃんは言いました。「自分が辛い時に、他人にあげるおみやげのことを考える余裕があるなら、あなたはもう成功したんだよ」と。「だからあなたはもうインドネシアに戻って来なくていい」。それが、おばあちゃんが僕に言った最後の言葉でした。その翌朝に亡くなったおばあちゃんに、僕は約束したのです。「僕はきっと、本当の成功者になってインドネシアに帰ってくるよ。立派な家を建てて、お手伝いさんを10人雇えるくらいになってみせるから」と。

当時の僕は、日本語学校で勉強しながら、同居させてもらっていた茨城のおばあさんが経営していたペットショップでバイトしていました。そして貯金が50万円に達したところで、おばあさんの旦那さんに言いました。「僕は、このままだと”人”になれません。だから外に出ようと思っています。もし成功しなかったら、この家に戻ってきます。その時、僕はお2人に土下座をします」。そして僕は冗談交じりに言いました。「いつか僕は、テレビでしか見れない人になるかもしれませんよ」。でも旦那さんは「そうなれよ。そうなるんだよ」と真顔で言って僕を励ましてくれたのです。そしておばあさんにも伝えました。「誰かが僕のことを聞いてきたら”彼は逃げちゃったんだよ”と、僕を悪者にしてください」と。こうして僕は、支えてくれた人の元から離れました。

その後、僕は千葉県柏市にあるアパートで自立への一歩を踏み出しました。ベッドも無いガランとした部屋で、ジーンズを重ねて枕にするような侘しい生活。そんな状況から脱出し、少しでも日本で暮らしやすくするためには、できる限り日本人に近くならないといけない。しかしそれを実現させるには、日本語学校だけでは不十分だと思いました。様々な言語表現、そして日本の人たちの生活ぶりなどを仕事を通じて学ぼうと思い、北千住駅前にあるマルイのデパ地下の練り物屋さんで働き始めました。クリスマスシーズンには同じフロアの洋菓子屋さんで売れ残ったケーキをたくさんもらい、それらを近所のおばあちゃんやホームレスの人などに配りました。そのお礼として誰かが僕に朝ごはんを作ってくれたり、家に遊びに来るよう誘ってくれたりと、いろんな人たちの支えをいただくようになったのです。

それ以外にも工場や工事現場、建設や解体の現場などを掛け持ちして働きました。睡眠時間を犠牲にしましたが、それでもがむしゃらに仕事をしたのは”日本で成功している自分の姿”を、かつてインドネシアで車やバイクを一緒に走らせていた仲間に見せたかったからです。「俺も昔は走り屋だった。でも俺は自分を変えることができたんだよ」と。

建設現場で働いた経験を活かし、張った板に自らニスを塗るなどDIYでこのお店を作りました

マルイの練り物屋さんでは、アルバイトではなく正社員として迎え入れるお話をいただくほどに。でも僕は、次のステップに向かうために丁重にお断りをしました。そしてコンビニエンスストアやWi-fiルーターレンタル会社などを経て、都内にある製薬会社の門を叩きました。

夢を後押ししたサイン
志望動機を空欄にした履歴書を持参した入社面接で、僕は言いました。「お給料はゼロ円で良いです。でも決して僕はパシリではありません。もし僕を評価してくれたら、その時からお給料をいただきます。もし皆さんが僕を評価しない場合、僕は退社します。以上です」。実はこれは、それまで勤務した全ての会社の面接で言ってきたこと。履歴書の志望動機欄に何も書かないのは、まだ会社のことを知らないからです。でも相手は大手製薬会社の重役たち。一通り僕が話した後、彼らは立ち上がりました。「やばい、ビンタされる!」・・・しかし彼らは「おめでとうございます!」と言って、僕に握手を求めたのです。

入社後、アルバイトとして製造部門に配属された僕は「何でもやらせてください」と会社に頼み、トイレ掃除など雑用からスタートしました。さらに僕は先輩に「社内で一番厳しい人を紹介してください」とお願いしました。なぜならそのような人は、仕事ができるか、社長に近いかのいずれかだからです。そんな人のそばにいれば、僕にはメリットしか無いじゃないですか。だから厳しい人だからと言って敬遠するのはもったいない。他の社員たちからは「あの外国人はゴマすりが上手い」と陰口をたたかれましたが、僕は気にしませんでした。その後僕はアルバイトからパート、嘱託社員、契約社員を経て、やがて正社員になりました。

一方で僕は、商売人の家系に生まれ育った影響から「いつかは自分で商売したい」とずっと思っていました。中でもコーヒーは、僕が小さいころから嗜んでいたものだし、大人はもちろん、子どももカフェオレにして飲むくらい、コーヒー文化は広がっています。しかも日本では砂糖もミルクも入れない、豆そのものの味を楽しむブラックコーヒーが親しまれている。だから僕は「インドネシアのおいしいコーヒーを出せば日本できっと売れる!」と睨んでいました。それに日本では、飲んで酔っぱらった時に自販機のコーヒーを飲んでリセットする人がいるほど、日常にコーヒーが溶けこんでいます。僕はこの”黒い水商売”(笑)を日本で展開することに、無限の可能性を感じて心からワクワクしました。

僕は「カフェを開くために退社します」と社長に伝えました。社長は「馬鹿なことを言うんじゃない!」。彼は僕が、アルバイトの立場から一生懸命働いて正社員になったことを知っていますし、そんな僕に社長が期待してくれていたから、僕の決断は彼にとって素直に祝福し難いものだったのかもしれません。しかも社長は「コーヒー屋なんて儲からないぞ」。僕は反論しました。「やってみなければ分からないでしょう。人の人生を、あなたに決めてほしくない」と。それでも社長の意思は変わらなかったので、僕は会長に相談することにしました。

ある日僕は、会長や社長と食事へ。その席で会長は「1杯いくらでやろうと思っているの?」と僕に聞きました。「300円です」。「は?」と不思議に思った会長。無理もありません。その製薬会社が作っている製品は桁違いに高価ですから。「それで良いの?」「はい」。そこで会長は自分の名刺を取り出し、その裏にサインしました。「もしお金に困ったら、会社に来てそれを見せなさい」。会長直筆のサイン入りの名刺など、ほとんどの社員は持っていなかったでしょう。それを平社員の僕にくれたのは「いざとなったらいつでも君を支援する」という会長の意思表示だったのです。会長が僕の前途を応援してくれたのだから、社長が賛同しないわけにはいきません。こうして僕は約8年勤務した製薬会社を辞め、自分のカフェを開くという夢の実現へと動き出しました。

インタビュー中の3杯目「ハニーミルクティー」。インドネシア・ジャワ島産の茶葉と蜂蜜の甘いハーモニーが楽しめる逸品です

ビジネスを支えた”松戸の裏ボス”
製薬会社のサラリーマン時代から住んでいる、千葉県松戸市。会社を辞めた後も、家賃や物価が安く品川や表参道などの都心へ電車1本で行ける松戸から離れず、市内を歩き回りながらカフェの候補地を探しました。そしてある日、松戸駅の近くで見つけた1軒の古民家。”松戸探検隊 ひみつ堂”と書かれたその場所は、松戸の観光案内所でした。この街に何らかの形で貢献したいと思っていた僕は、そこにボランティアとして参加。そして観光案内所のリーダーである女性に出会います。

石上瑠美子さんというその人は、一見すると普通の女性。でも実は松戸の”裏ボス”のような存在で、市内のあらゆる人たちとつながっていました。僕は思いました。「この人の下で仕事をすれば、僕にもあらゆる人たちに出会うチャンスが来る!」と。実際に、僕はいろいろな人たちとつながり、彼らが僕の夢の実現を応援してくれました。さらに石上さんからのご厚意で、ひみつ堂のスペースを僕のカフェとして使わせてくれることになったのです。

築100年超の古民家にあった頃のマハメルカフェ全景。建物右には「ひみつ堂」ののぼりも。
写真提供:リノ・センレワさん

製薬会社を退社してから約2年が経った2016年3月、僕の初めてのお店「マハメルコーヒー」がオープン。しかし初日の売上はゼロ、2日目が500円という厳しい船出です。僕は「どうしよう。貯金はまだあるけど、この状況が続いたらヤバい!」と妻に漏らしました。彼女は「最初だからしょうがないよ。焦らずゆっくりやればいいよ」と言ってくれました。その言葉に元気をもらった僕は、お客さんとの会話を増やして彼らが求めているものを探るなど、それまでやっていなかったことを意識的に試してみました。素直に人の話を聞く姿勢を持つことでリピーターが増え、いつもカフェに人がいることでお店への信頼が生まれ、やがて新しいお客さんも増えていったのです。

マハメルコーヒー移転&新装開店後も、その上に”松戸探検隊 ひみつ堂”さんが入っています

渋沢栄一に俺はなる
接客については、今も毎日反省しています。「今日はお客さんと話し過ぎたかな」とか「あの人に強く言い過ぎちゃったな」とか。実際にお客さんに謝ることもあります。そしてどんな人が来てもお話ができるように、知識や情報も身につけておかなければならない。もちろん相手の言っていることが分からなかったら、知ったかぶりをしないで質問する。そうやって緊張感を持って仕事をすれば、毎日が充実した楽しいものになります。逆に、仕事に慣れたら終わりです。

それに僕は、ただ日本に来て、勉強して遊んで、働いてお金を稼いで母国に帰るようなことはしたくなかった。それだと、日本に自分の爪痕を残せません。何かを残さなければ、これからインドネシアから日本に来る、かつての僕のような留学生の励みにならないじゃないですか。

外国人だって、日本で何かできる。できないことは無い。僕のこれまでの日本での20年は、それを自分の身で証明するためにあったのだと思います。

僕は日本語学校で学んでいた頃、幕末や明治時代の偉人たちに関する本を読みました。中でも僕が惹かれたのは渋沢栄一です。明治時代に日本で初めての銀行を作るなど、彼の業績がずば抜けていたから、当時は彼の考えや行動が一般の人たちに理解されなかったかもしれません。でも彼はたくさんのものを、後世に残しました。だからこそ、今の日本経済があるわけです。

僕も渋沢栄一のように、日本に何かを残せる人になりたい。今カフェを経営している僕が、そのために何かできるとしたら、このカフェをいろいろな場所で開くこと。それも都内ではなく、地方です。インドネシアのコーヒーを、地方の人たちにも身近に感じていただきながら、その人たちと共に素敵な空間を作っていくのが、僕の夢です。

リノさんにとって日本って何ですか?
”僕の人生を変えてくれた国”です
インドネシアにいた頃の僕は、レースで稼ぐ命知らずの男でした。そんな奴が日本に来て、真面目に、丁寧に、一生懸命仕事をしたら、いろんな人たちが応援してくれた。そのおかげでカフェまで開くことができたのです。

”Made in Japan”という言葉は、すごい力を持っています。インドネシアから仕入れた豆を日本で焙煎すれば、そのコーヒーはMade in Japanになる。どこの国に行っても、Made in Japanの製品は信頼があるから、商売がやりやすいです。

そんなMade in Japanを生み出してきた日本なら、誰でも自分がやりたいことを実現できると思います。逆に言えば、それをやるかやらないかは自分次第。自分のやりたいことを見つけて、それをハッキリと口に出してたくさんの人たちに伝えて、その人たちからの信頼を少しずつ得ていけば、きっとこの日本で実現できるでしょう。

人生も、運命も、全て自分で変えられる。それが日本という国だと思います。

【リノさん関連リンク】
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