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【インタビュー:多文化をチカラに⑱】エニング サムエルさん(俳優・実業家)2023.04.20 |
My Eyes Tokyoの協力のもと、日本で活躍する外国にルーツを持つ方々へのインタビューを紹介していきます。
https://www.myeyestokyo.jp/61021
もし僕が日本にいなかったら、僕はこの世にいなかったかもしれませんね。
今年(2023年)3月某日。横浜で新しく設立された英会話スクール”SHAKE HANDS LANGUAGE SCHOOL”のオフ会に、私たちは招待されました。美味しい料理をいただきながら、英会話を学ぶ人たちが英語でのコミュニケーションを楽しむという主旨のその会に、複数の外国籍の人たちがいました。
席が偶然にもPOPさんと隣同士になった私たちは、名刺を交換。外国人タレント事務所を経営する彼と、世界中から来た人たちにインタビューしてきた私たちは、お互いの活動に興味深々。「何か一緒にやりましょう!」と私たちに言ってくれたPOPさんでしたが、その前にまず私たちから彼のストーリーをお聞きすることにしました。
『秀吉』『ケイゾク』『池袋ウエストゲートパーク』など著名な映画やドラマに出演する俳優としてだけでなく、自ら芸能事務所を立ち上げた実業家としても大活躍中のPOPさん。これまで海外出身の起業家や経営者に数多く出会ってきた私たちでしたが、決して平坦ではない自身の半生を振り返りながら、アフリカの太陽のように明るく笑うPOPさんに”異国で夢をつかむ秘訣”を見出した気がしました。
日本の文化を教える”先輩”
僕は自分自身が俳優やタレントとして活動しながら、外国人の俳優やモデルなどが所属する芸能事務所を経営しています。弊社所属のエンターテイナーの背景は様々で、世界のほぼ全ての国から来ていると言ってもおかしくないでしょう。その人たちの活躍の場を作るために、僕は日本国内のメディア業界や広告業界にネットワークを築いてきました。
いろんな背景を持つエンターテイナーたちをマネジメントするのは、ハッキリ言って辛い。そこで大事になってくるのがコミュニケーションです。相手の言葉に耳を傾け、考え方や価値観を理解しながらも「でも日本ではこうしなければいけないんですよ」と伝える。ガーナ出身の僕が、他の外国人に、日本の文化や風習についてアドバイスするのは、おかしいかもしれませんね(笑)でも僕には約30年もの日本在住経験があるので、相手も納得してくれます。最近はグローバル化の波に乗って、日本を含めたあらゆる地域の情報が入手しやすくなっているから、日本について勉強してから来日する人も多い。だから彼らにとって、日本で生活することへのハードルは低くなっていると思います。
ニッポン一筋40年
僕が日本に初めて来たのは1989年9月14日。しかし僕自身の日本とのつながりはもっと昔、僕が子どものころまでさかのぼります。僕の姉が日本人男性と結婚し、当時10歳くらいだった僕は彼らや、彼らの子どもたちと一緒に暮らしていたのです。
その男性は建築家の矢野光昭さんという人。日本の外国人または外国ルーツの人たちの活動に詳しい人なら、ここでピンと来るかもしれません。僕の姉と矢野さんとの間に生まれたのが、ボーカルユニットとして日本で活躍する3人兄弟”Yano Brothers”(矢野マイケル、デイビット、サンシロー)。つまり彼らは、僕にとって甥にあたるわけです。彼らがまだ赤ちゃんだったころ、僕が彼らのおしめを取り替えていました(笑)矢野さんの長男はマイケルではなく、僕かもしれなかったですね(笑)
当時僕が住んでいた矢野さんの家には、青年海外協力隊や在ガーナ日本大使館、野口英世研究所の人たちが毎月のように訪れました。だから僕は小さいころから、日本人と交流する機会があったのです。その上日本のある会社から送られてくるカレンダーには、日傘を持つ着物姿の女性の写真。「うわーきれい!」って思いましたね。家に誰かが置いていった、登場人物全員が”I am Doraemon!”みたいに英語でしゃべる『ドラえもん』のビデオも夢中で見たものでした。
その後しばらくして矢野さん一家が日本に移りましたが、矢野さんから「お前も日本に来てみないか」と誘われ、20歳の時に日本にやって来ました。
『与作』で日本の芸能界へ
もともと電気が好きで、日本のエレクトロニクスに憧れていた僕は、大田区蒲田にある日本工学院専門学校に行こうと考えていました。そのための奨学金を新聞販売店が出してくれると言ったので話を聞きましたが、雨の日も雪の日も新聞配達しなければならないと知って断念。アルバイトをしながら日本語学校で勉強しました。
当時の僕のバイト先は、原宿にあったイタリアンレストラン。その同僚だったナイジェリア人が、たくさんの外国人タレントを擁する”稲川素子事務所”に所属していました。歌うことが大好きで、バーやカラオケボックスによく行っていた僕に、エンターテイナーとしての素養があることを、彼は見抜いたのでしょう。「フジテレビの”全日本ガイジン選手権”という番組で歌ってみないか」と僕に言いました。心の底から「出たい!」と思い、オーディションを受けた僕は運よく合格。しかも北島三郎さんの『与作』を歌って優勝までしたのです。その番組で審査員を務めていた、僕の同僚が所属していた事務所の社長である稲川さんが「ウチに来て!」と僕に言いました。
僕はエンジニアを目指しながらも、小学校や中学校に通っていた頃、学校で演劇活動に熱中していました。演技するのは上手くないけど(笑)好きだった僕は、喜んで稲川さんからのオファーを受けました。日本の芸能界に足を踏み入れた瞬間でした。
”お母さん”との別れ
僕は稲川さんのおかげで、映画やドラマの名作にたくさん出演させていただくことができました。もともと演じることが好きだから、いただいた仕事全てが楽しくてしょうがなかったですね。逆に言えば、楽しくなければ辞めていたと思います。
稲川素子事務所には、約15年間在籍。稲川さんという心の広い、僕の日本での”お母さん”とまで呼べる人のお世話になって様々な経験を積ませていただくうちに「自分だけの力でどこまで出来るか」を試したいと思うようになりました。僕は稲川さんに「独立したい」と、自分の正直な気持ちを伝えました。
驚いた彼女は言いました。「”天国に行ってからも稲川素子事務所の柱になる”とまで言ったあなたが、なぜここから離れていくの?」。その言葉が僕の胸に突き刺さりました。
彼女がいなかったら、僕の日本での人生も無かったと100%言えます。日本での礼儀作法や風習、ビジネス習慣などを教えてくれ、大手企業の社長や政治家など、普通に生活していたら出会えなかっただろう人たちを、稲川さんは紹介してくれた。そんな”恵み”を僕にもたらしてくれた彼女は、日本での人生の恩人です。でも僕は「自分の力を試したい」という思いを強く抱いていたから、その後も稲川さんと2~3ヶ月間話し合いを重ねました。稲川さんが納得してくれた上で、僕は独立しました。
「壁にぶつかっても前に進め」
所属タレントの中では日本語が比較的堪能だったため、稲川素子事務所では俳優やタレントとして活動しながら、他のタレントのマネジメントもさせていただいていました。その経験を、友人で芸能事務所の代表だった日本人女性が求め、僕は副社長として、彼女の会社で外国人タレント部門を立ち上げました。その後2008年、再び自分の力を試したくなりその事務所を離れ、当時住んでいた横浜のマンションの一室で自分の事務所”BAY-SIDE”を設立しました。
立ち上げ当初から100人以上のタレントが所属していたため、自宅兼事務所にいる間は早朝からパジャマ姿のままで夜遅くまで休むことなく営業の電話を掛け続けました。それでもタレントたちに給料を支払うことで精一杯で、自分が役員報酬を受け取れるようになったのは、設立から約1年後のことです。
確かに大変でした。でも僕の星座は獅子座で(笑)しかも若かったから、とにかく「ファイト!」で前進あるのみ、アタックNo.1!(笑)大変だからと言って逃げることはせず「どうすればこの状況を切り抜けられるか」を考えました。それは僕のお母さんからの影響ですね。母はよく僕に言いました。「壁にぶつかっても後ろに下がらず、前に行くための方法を探しなさい」と。
それから15年、浮き沈みを経験しながらも、僕は前だけを見て走り続けてきました。おかげさまで数多くの仕事をさせていただき、会社の経営状況も良好でした。しかしそこへコロナがやって来ました。その影響は決して小さくなく、仕事が急激に無くなり、経営的に苦しい状況。しかし僕は母に言われた通り、前に行くための方法を探しました。こうして見つけた道が”ラジオ”です。
年中無休でレガシーを築く
僕は20歳で来日して以来、ずっと日本にお世話になってきました。僕が抱く日本への感謝の気持ちを、母国ガーナの人たちにも分かってほしい。そして僕を生んでくれたガーナの文化や風習を、日本の人たちに伝えたい。つまり”日本とガーナの橋となる”ことですね。
そんな僕の”使命”を実現するため、2020年5月にオンラインラジオ局”JafriQ Radio”を立ち上げました。ガーナでトップの聴取率を誇るラジオ局”Adom FM”から流れるニュースや音楽を聴いたり、日本のニュースやエンターテイメント情報を入手したり、日本語を学んだりするラジオです。このメディアで僕がやりたい企画は山ほどありますが、そのためにはスタッフが必要。アフリカ市場に関心ある日本企業の皆さんからスポンサーを募ることを検討しています。
アプリ”JafriQ Radio”の強力ラインナップ。アプリダウンロード:iOS Google Play
POPさんのご自宅の一室からアフリカへ、全世界へ発信!
写真提供:サムエル エニングさん
JafriQ Radioを始め、これまで長らく経営を続けてきたBAY-SIDE、そのナレーター・声優部門を分社化する形で2017年に新たに立ち上げた”ZION”という外国人タレント事務所を、僕のレガシー(遺産)にする – これが僕の究極の夢です。そのために、僕はほぼ年中無休で働かなければならない。せめて月1回程度は温泉に行く時間を確保しながら(笑)これからも走り続けたいと思います。
POPさんにとって、東京って何ですか?
僕にとっての”天国”です!
東京は僕の人生をより楽しいものにしてくれました。僕の家族や友人は東京におり、そして僕は東京で仕事をしています。東京に対しては、もう”感無量”。ネガティブな感情は一切ありません。
僕はAmerican Dreamではなく”Tokyo Dream”を掴みました。東京は最高!
POPさんにとって、日本って何ですか?
僕の第2の故郷であり、僕にとっての”恩人”です。
日本のおかげで、僕はこれまで健康で、53歳まで生きることができました。もし僕が今もガーナにいたら、平均寿命の観点から言って、僕はすでに亡くなっていたかもしれません。実際に僕の学生時代の同級生で、すでに亡くなっている人たちがいます。
この日本に今生きているのは、矢野光昭さんのお導きがあったからこそ。悲しいことに矢野さんはお亡くなりになってしまいましたが、僕はこれからも矢野さん、そして日本に感謝しながら、生きていきたいと思います。
POPさん関連リンク
株式会社BAY-SIDE:bay-side.biz/
※Facebook:こちら
株式会社ZION:zionv.biz
JafriQ Radio:jafriqradio.com/
※アプリ
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※YouTubeチャンネル:youtube.com/@jafriqradio1989/