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【インタビュー:多文化をチカラに⑲】バブリ アシュラフさん(輸入販売会社経営者・大使館職員)2023.05.12 |
My Eyes Tokyoの協力のもと、日本で活躍する外国にルーツを持つ方々へのインタビューを紹介していきます。
https://www.myeyestokyo.jp/61066
アフガニスタンのネガティブなイメージを覆し、母国の農業を支えたい – 私が日本で起業した理由です。
My Eyes Tokyo編集長の徳橋が幼少期より育った街には、他には無いある特色があります。それは”リトルアフガン”です。多くの自治体ではトップに来るであろう中国出身者や韓国・朝鮮出身者の人口が、その街ではアフガニスタン出身者に首位の座を譲るほど。そのため徳橋は「いつか彼らのストーリーを聞きたい」という思いを抱いていました。
昨年(2022年)日本に逃れた難民にアフガニスタン出身者が大多数を占めたという事実を受け「いよいよその時が来た」と思った私たちは、偶然あるメディアで、食料品輸入販売会社”アフガンサフラン”を経営するバブリ アシュラフさんがご紹介されているのを目にしました。
バブリさんの拠点は千葉県松戸市。松戸駅そばを流れる小川のせせらぎを楽しみながら約10分ほど歩くと、アフガニスタン産のサフランやドライフルーツ、絨毯などを販売するお店が見えてきます。それがバブリさんの会社が経営する”ナッツ&フルーツのお店~BAHAR~”です。
ついに私たちが出会った、日本で活躍するアフガニスタン出身者のバブリさんは、物腰柔らかく実直で、笑顔がとても素敵な人。しかしMy Eyes Tokyoに英語版もあることを伝えると、バブリさんのお顔から笑みが消え「記事は日本語だけでお願いします」と真剣な表情でおっしゃいました。
それはなぜなのか・・・お話を聞くうちに、その理由が分かりました。
ビジネス経験皆無で起業
弊社で取り扱っているのは、世界最高位と評されるアフガニスタン産のサフランや、ドライフルーツなどの食料品、現地の職人の手で作られた絨毯です。いずれも弊社のメイン商品と言えますが、サフランの輸入販売からはじまったので、社名を”アフガンサフラン”としました。オンラインやマルシェでの販売を経て、2021年3月に松戸市内に実店舗をオープン。その当時の季節であり、アフガニスタンが新年を迎える時期でもある”春”という意味のペルシャ語”BAHAR”をその名にしました。
BAHAR店内。数々の商品と共に、アフガニスタンで医療活動に従事した中村哲氏の肖像画や、バブリさんの愛娘さんたちが描いた平和を願う絵画が展示。
弊社を立ち上げるまでの私にあったのは、母国でも日本でも、ほぼ公務員としての経験のみ。一度も自分で商品やサービスを販売したことがありませんでした。でも私には「日本の人たちに僕の母国のことを知ってほしい」という思いが強くあったのです。
アフガニスタンと言えば?
お会いした人から「お国はどちらですか?」と聞かれ、私が「アフガニスタンです」と答えると、お相手はウサマ・ビン・ラディンを連想して表情を曇らせます。ビン・ラディンはサウジアラビアで生まれ育った人ですが、アフガニスタンとの関係が深かったために、”アフガニスタン=ビン・ラディン”と思われてしまうのでしょう。「アフガニスタン人は人殺しだ」と考えられることが、私にとってすごく嫌だった。確かに私の母国は、私が生まれる前から内戦や旧ソ連による侵攻に見舞われ、国民が生きるために銃を手に取り、そこへ国際的テロリストグループが入り込みました。人々が”アフガニスタン=戦争””アフガニスタン=テロ”と考えるのも無理はありません。事実、私自身も日本に来るまで”平和”というものを知らずに育ちました。
余談ですが、来日後に都内に住み始めた頃のこと。人々が毎朝、最寄り駅に走っていく様子を見て、私は気持ちが落ち着きませんでした。「皆が走っているのは、何か事件が起きたからではないか?」と。アフガニスタンのような情勢が不安定な国では、人々が走るのは決まって何かが起きたからです。
私は、そんなネガティブなアフガニスタンのアイデンティティを変えたかった。そのためには”アフガニスタンのサフランやドライフルーツはとても美味しい””アフガニスタンで作られた絨毯はすごく綺麗”といったポジティブなイメージを作ることがとても重要になるのです。
震災の教え
そして私が農家に生まれた人であることも、この事業を始めた理由です。私の父は母国でたくさんのお米や小麦、野菜を作りました。しかし一方で、貧困救済という名目で国連からアメリカ産やカナダ産の作物が送られると、農家が作ったものが売れなくなり、結果として価値が暴落します。しかもアフガニスタンでは干ばつが長年続いているため、収穫量も不安定です。
これらのために農業を諦めて農地を売ったり、親が引退した後に子どもが農業を引き継がなかったりする問題が発生。その結果、海外へ逃れる難民が増えたり、若者たちが過激派組織に利用されたりします。またモノを与えられることに慣れてしまうと、人は働かなくなる。そこに入り込むのが麻薬です。
私が日本語学校を卒業した2011年3月、東日本大震災が発生。私はボランティアとして現地で復興支援に従事しましたが、その時、日本の国民同士が懸命に支え合う姿を目の当たりにしたのです。私は思いました。「日本人同士が支え合ってきたからこそ、立派な国を作り上げたのだ」と。私は母国アフガニスタンの全国民を支えることは出来ないかもしれないけど、一家族なら助けられるかもしれない – そう思いました。
アフガニスタンの農家の作物を買い取り、豊かな国々の人たちに向けて販売することこそが、国の人口の約8割を占める農民を救う道。彼らが作った美味しいサフランやドライフルーツを日本の人たちに食べていただき、アフガニスタンのポジティブなイメージを伝えながら、現地の農家を支援する – これらが結びつき、私は事業の立ち上げへと動きました。
当店で取り扱っている食材の数々。商品のパッキングは、主に松戸市内にある障がい者支援施設に依頼。
しかし実はもう一つ、ビジネス経験の無い私が異国で事業を立ち上げた理由があります。それは後でお話しますね。
父をたずねて1600里
先ほども話したように、私は農家の息子として生まれました。アフガニスタンに海外の作物がたくさん入ることに対し、政府は非難するどころか感謝していた。誰も自国の農業を保護する考えを持っていなかったのではないかとさえ思いました。その状況を変えるため、私は大学で経済学を学び、やがて公務員を目指すように。そして大学卒業後の2006年、実際に国家公務員として働き始めました。
しかし一方、私は日本に興味を持っていました。父は今から約50年前、農業を学ぶために来日し、茨城県で研修を受けました。その当時のことを私が子どもの頃から聞いていたのです。しかも私が公務員だった頃、父は日本人女性と再婚し、都内に住んでいたのです。
私は父に相談しました。すると父からは「日本に行くのは良いが、日本語を学ばなければ日本の人たちと交流できないし、日本で生きていけないよ」との答え。私は不思議に思いました。「英語で十分ではないか?」。なぜなら実際にアフガニスタンで出会った、JICA(国際協力機構)などで働く日本人は、全員英語が話せたから。日本に住む日本人も英語が話せるのだろうと考えていたのです(笑)
父を頼って私は来日し、その後2年間日本語学校で勉強しました。その間に、母国の文化を日本に紹介し、日本の文化を母国に紹介するような両国の架け橋としての仕事を目指すようになりましたが、その思いとは関係なく、母国の人たちに出会ったり、母国の言葉を話したりする機会を求めて、日本語学校在学中から駐日アフガニスタン大使館に週1回インターンとして勤務していました。
将来どのような仕事をするにしても、一度は商売を経験した方が良いと思い、卒業後は都内にあるアパレル会社へ。その会社は様々な国から衣服を輸入し、日本語のラベルを貼って店舗に卸す業務をしており、私はラベリングと物流管理を担当しました。海外と日本の”橋”となる仕事を、この先も続けていこうと思いました。
大使からの申し出
ちょうどその頃、私の知らないところで駐日アフガニスタン大使が私のことを探していました。ダリー語とパシュトー語というアフガニスタンの2つの公用語をいずれもネイティブとして話し、その上英語や日本語も話すことができ、いずれの言語でもメールが書けて人々との交流も得意。3~4人分の仕事を1人でこなせ、その上若かったから疲れ知らず。だから私は大使から重宝されていたのです。
ある日大使館の秘書から「大使があなたに会いたがっている」との連絡を受けました。その経緯を知らない私は「何か悪いことでもやったのかな?」と(笑)その後お会いした大使から「今、人を募集している。ここで仕事してみないか?」と言われました。
その席で私は「大使、ありがとうございます」と言いました。それはつまり「結構です」という意味。なぜなら当時はすでにアパレル会社で働いており、そこで頑張ろうと思っていたからです。大使は私の父のことも知っていたので、そのやり取りが父にも筒抜けに。そして怒られました。「あなたはアフガニスタンと日本の架け橋になりたいと言っていたね。それなら大使館ほどふさわしい場所は無いんじゃないか?」と。その言葉に納得した私は、アパレル会社を退社し、2011年8月に大使館に入りました。
日本の法律や政治などの事情に通じた者として、数年おきに代わる駐日大使に仕えてきました。2021年8月25日までは給与をいただいてきましたが、タリバンが政権を掌握してからは、日本との国交は無くなり、大使の給料を含む本国からの大使館への送金が停止。その後も私たちは、日本に住むアフガニスタン人のために、ボランティアとして勤務する日々が続きました。会社を経営しながら、今も無給で大使館に務めています。
女性に活躍の場を
私がこの事業を立ち上げたもう一つの理由。それは”女性支援”です。
私は幼いころから、男の子の後ろを歩く妹の姿を見て”男性が女性の前を歩く”ことに疑問を持っていました。「男女が肩を並べて歩けば、世界中の人たちの考え方が変わるのに」と当時から思っていたほどです。「男同士の話し合いに女性は意見すべきではない」という風潮がアフガニスタンでは当たり前のように受け入れられていますが、私の家庭でも、話し合いの席には母が存在しないかのように扱われていた。私にとって母より大きい存在は無かったのに・・・私の家族は考え方がそれほど古くないと思っていましたが、それでもこの状況。他の家庭の女性も、家から出ることを禁じられたりするなど、人間としての権利が認められていない。それが私には全く理解ができず「おかしいだろう!」とずっと思っていました。
一方、アフガニスタンではアヘンの原料となるケシの栽培が盛んに行われていました。私自身、ケシ栽培には反対でした。さらに私は、自分のフェミニストとしての背景から、女性の就労支援に強い関心を持っていました。
アメリカ合衆国国際開発庁(USAID)とアフガニスタン政府が協力し、2006年頃からアフガニスタン国内でケシの代わりに、その貴重さから高価で販売される香辛料サフランの栽培が進められるようになりました。多くの女性たちが栽培に従事し、結果として女性に対し多くの雇用が生まれました。
しかし私の駐日アフガニスタン大使館での勤務開始後、2013年頃にそのプロジェクトが終了すると、海外への販路や高品質のパッキング技術を持たない現地の農家さんたちの売上は減少し、2014~15年頃から再びケシ栽培に戻る人たちが出てきたのです。
アフガニスタンでは、バッグや財布、服などの手工芸品を作る女性たちもいましたが、それらが日本で受け入れられるか見えませんでした。でもサフランなら自信を持って日本に紹介できると考え、アフガニスタンの女性課題省に相談したところ、ヘラート州でサフランを栽培している女性を紹介してくださいました。
私はこれまで、アフガニスタンでも日本でも、ほぼ一貫して公務員として働いていたため、何かを売るという仕事をしたことがありませんでした。そんな私でしたが、彼女たちのサフランを日本に広めたい一心で、私は妻と共に2017年6月”アフガンサフラン”を立ち上げました。本当は”Afghan Women Saffron”にしたかったのですが、少し長いと思い、アフガンサフランに落ち着きました。
日々の暮らしにサフランを加えるヒントを載せたレシピブックと共にサフランを販売。バブリさんの努力と工夫の積み重ねで、サフランの販売量が増えていった。
最初につながったサフラン農家さんたちが、私たちにフルーツ農家さんをご紹介くださいました。それらの縁により、今年(2023年)までに36世帯の農家さんと提携、同時に私たちが支援させていただいている女性たちの数も増えています。また自社工場をアフガニスタン国内に作り、農業に従事していない女性たちにパッキングを担当していただいています。また2021年にタリバンが再び政権を奪取した後、職を失った女性たちに刺繍で模様を作る仕事を紹介しましたが、高値で販売される絨毯製作を希望する声が彼女たちから挙がり、今年に入ってから彼女たちが作る絨毯の販売を開始しました。
当店で販売する絨毯の数々。最もきめ細かい模様を施したウールの絨毯(写真右)は、完成まで約3年を費やすそう。
最後にもう一度「アフガニスタンと言えば?」
私が好きな日本語は”地道にコツコツ”。たった1つのサフラン農家から支援が始まり、その輪が広がっていきました。子どもの頃からほとんどモノを売ったことがない私が、今では約20種類の商品を販売しています。それはアフガニスタンを愛してくださっている日本の皆さんのおかげであり、彼らからの応援が、アフガニスタンに工場まで設立するという未知への挑戦の原動力になっています。これからも事業を拡大し、さらに多くの日本の人たちに無農薬で美味しいサフランやフルーツを届け、アフガニスタンの農家さんを支える – もしそれができたら、それは私にとってもありがたいです。
私はアフガニスタンのイメージを変えたい。”アフガニスタン=美味しいドライフルーツ””アフガニスタン=農家さんが頑張っている姿””アフガニスタン=昔ながらの農業でモノを作り家族を支える人々” – そんなイメージを新たに作りたいですね。
バブリさんにとって、日本って何ですか?
”私の家”ですね。
妻は日本人だし、妻との間に生まれた2人の娘がいます。だから日本は私にとって今や”帰る場所”になっています。
もちろんアフガニスタンも大切な私の国。私の家族や出会った人たちとの思い出がたくさん詰まっている場所です。そんな大事な場所や、その場所で暮らし働く人たちを、日本にいるからこそ支援できるのです。
だからアフガニスタンも日本も、私にとって最も大切な国です。
ナッツ&ドライフルーツのお店~BAHAR~
千葉県松戸市小山35-2 松戸パレス1F(地図)
※最寄駅:JR/新京成線「松戸」西口より徒歩10分
電話:047-317-6997
営業時間:平日・土曜 11:00~18:00
※定休日:日曜
バブリさん関連リンク
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