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【インタビュー:多文化をチカラに⑳】メクダシ・カリルさん(タレント/通訳・翻訳者)2023.05.17 | 

My Eyes Tokyoの協力のもと、日本で活躍する外国にルーツを持つ方々へのインタビューを紹介していきます。
https://www.myeyestokyo.jp/61229

”平和ボケ”最高!みんな平和ボケになれ!

皆様、大変お待たせしました!出会ってから約8年、ついにこの御仁にマイクを向ける時がやって来ました。レバノン生まれのフランス人、日本在住約30年のコスモポリタン、メクダシ・カリルさんです。

メクダシさんとの出会いは、外国人向けメディアおよびコミュニティを運営する会社”GPlus Media”と私たちが英語朝活を共催していた頃。会社の近くにお住まいのメクダシさんは、オンラインで偶然私たちの朝活の情報を目にし、「何もない週末だし、ちょっと顔出してみるか~」という超気軽なお気持ちでご参加くださいました。

しかし実はそれよりはるか昔、My Eyes Tokyo編集長の徳橋はメクダシさんの姿を見ていました。時代が20世紀から21世紀に変わる頃、NHKで放送していた日本語教育番組『にほんごでくらそう』。全編ほぼ英語で放送されていたその番組を、語学力向上のために見ていた徳橋の目に、現在と同じヘアスタイル(?)の男性の姿が焼き付きました。それがメクダシさんでした。

超有名俳優にもその名が知られる存在でありながら、出会う人たちから求められる記念撮影にも気軽に応じたり、道行く人たちに手を振ったりする、飾らないフレンドリーなお人柄。そばにいる人たち全てをハッピーにするその笑顔は、実は波乱万丈の半生の末に生み出されたものだったのです。

もしも世界が平和になったら?
僕の仕事は、主に3つあります。1つはテレビに出演するタレント。ドラマのエキストラが多いですが、有名なミュージシャンやアイドルのミュージックビデオ、コマーシャルなどに出演させていただくこともあります。

出演は0’47”~。小嶋さんとのフランス語のやり取りをお楽しみください。

2つ目の仕事は通訳です。最近は主に警察や入国管理局と、主にアフリカ出身の人たちの間に入ってフランス語での通訳を行っています。

3つ目は報道、主にテレビニュースの翻訳です。こちらはアラビア語で行うことが多いですね。

僕はもう20年以上、港区に住んでいます。でも本当は上野や浅草、日暮里、谷中、王子、阿佐ヶ谷、高円寺など下町が大好き。じゃあ何でここに住んでいるかというと、ただ単に便利だからです。特に報道番組向けの翻訳は、局から急に電話がかかってきて「今から来れますか?」。”今夜”とか”明日”ではありません。”今”です。でも僕の家からはJRや地下鉄、ゆりかもめの駅が全て徒歩圏にあるので、あらゆるテレビ局にすぐ行ける。だからここから離れられないんですよね。

もし世の中が平和になったら、僕の翻訳の仕事はほとんど無くなるんだよ!(笑)だから気持ちはとても複雑です。母国であるレバノンは、僕が子どもの頃に始まった内戦で、街も国も、人々の人生もめちゃくちゃになりました。いとも簡単に・・・

戦争一色の少年時代
僕はおばあちゃん子でした。女性用高級下着を扱う店を経営していたパパと、レバノン領事館で働くママは、サウジアラビア第二の都市ジッダに住んでおり、僕だけがレバノンの教育を受けるためにベイルートの祖母の家に預けられていたのです。ちなみにパパの会社は、女性向けの商品を販売していたにもかかわらず、現地の女性は働くことが禁じられていたため、従業員は全て男性でした。

僕が生まれた頃、1960年代のレバノンは、中東地域で最も発展していた国と言われていました。中東の金融・貿易の中心で、大学や病院が数多くあり、日本の総合商社が中東での拠点を置いていました。レバノンには資源が無いため教育に力を入れており、現地に住む外国人向けの学校までありました。僕が通っていた小学校や中学校に、日本人の子どもが2人いたのを覚えています。

しかしそんな繫栄も、1975年4月に起きたレバノン内戦で崩れ去ります。ただそれまでのレバノンが、果たして平和だったかどうか・・・”平和”ってどういう状況だろう?もちろん今の日本のような状況には遠く、内戦前も何回か戦争がありました。街の上空をイスラエルやトルコの戦闘機が飛んでいて、もうヤバかったよ。でも何とか僕たちは生活できていたんです。しかし本当は戦争などしたくなかったレバノンが、イスラエルとパレスチナとの紛争に巻き込まれ、内戦が始まってしまいました。

夢破れて日本あり
週に1~2回、僕が住んでいた家の近くで爆発が起きたり、ビルの屋上に潜むスナイパーから市民を守るために道が封鎖されたりする中、離れ離れに住んでいた祖母の家族が一斉に、ベイルート市内でも比較的安全な地域にある祖母の家に避難してきました。そのため僕のスペースが無くなり、また祖母も僕のことを守り切れないと感じたため、やむを得ずサウジアラビアにいる僕の両親のもとへ行くことに。1年間サウジアラビアに住み、その間に現地の学校に行きましたが、自分がレバノンで受けていた教育と全く違っていたため、合いませんでした。

その頃、16歳だった僕は夢を抱いていました。アメリカかイギリスに行って、英語を学ぶという夢です。しかし実際は、レバノンと”複雑な関係”だったフランスに、両親から無理やり行かされました。”3か月間だけ”とパパから言われてしぶしぶ承諾し、1976年10月15日の朝、首都パリに到着。すごく寒かったことを覚えています。

パパが僕と交わした約束の期間は”今年の夏まで””来年”・・・とどんどん延びていきました。レバノンが懐かしくなり、遊びに行こうと思うものの、そのたびに母国で事件やトラブルが起きたため、なかなか帰ることができずにいました。

その間に国際バカロレア資格(国際的に認められる大学入学資格)を取得した僕は、いよいよ長年の夢を実現する時だと思い、パパに打ち明けました。「アメリカの大学に行くのに十分なTOEFLスコアを持っているんだ。だからお金をちょうだい!」。パパは言いました。「今、私たちはサウジアラビアで滞在許可をもらっている。ここからアメリカは遠いから、行ったり来たりするのは無理でしょう?だからとりあえずはフランスに残ってね」。

その言葉に愕然とした僕は、若気の至り – 僕の大好きな言葉です(笑)- で、一風変わった言語を勉強しようと思いました。思えばレバノンもサウジアラビアも、アジアの一部。パパが経営する下着店で働いていた、同世代のインドネシア人からインドネシア語を教えてもらったことがあり、それでアジアの言語に興味を持っていました。しかも僕が13歳か14歳の頃に叔父さんに買ってもらった戦車のプラモデルがタミヤ模型製のものだったし、戦時下の情報収集と、あらゆる国々の番組を聴くために僕が愛用した短波ラジオはソニー製。母方の親戚の一人と結婚したサウジアラビア国籍のインドネシア人が、第二次世界大戦当時に日本が母国に行ったことを好意的に語ってくれた。その上僕のパパの店の隣にあったカメラ屋さんの、僕に「おはようございます!」という言葉を教えてくれたフィリピン人スタッフが「将来は日本だよ!」と言う・・・

時は1981年。日本という国の面白さに惹かれ、僕はパリで2番目に古い教育機関である”Institut national des langues et civilisations orientales”(フランス国立東洋言語文化学院。略称INALCO)で日本語の勉強を始めました。

”片思い”の国へ
その学校では修士まで進むも、働く必要に迫られて中退を余儀なくされた僕は、従姉の旦那さんの伝手でパリのシャンゼリゼにある国際銀行に就職。バブル時代の当時、すぐそばにあるランセル(フランスの高級ブランド)の店にたくさんの日本人が買い物に来ていたから、僕が窓口業務をしていたその銀行には日本人が・・・ヤバい。日本人のお客さんをいっぱいナンパしたよ(笑)

それはさておき、仕事で得た給料を貯金し、当時はまだレバノン国籍だったために駐仏日本大使館で観光ビザを申請。ついに”片思い”の国・日本へと旅立ちました。1988年の暮れ、昭和が終わろうとしていた頃です。大韓航空でパリを発ち、アンカレジやソウルを経由して成田にたどり着くという、今では考えられない長距離飛行。疲れ切った体を引きずり、出迎えに来ているであろう日本人のヨシアキを探したけど・・・いない!パリのINALCOで知り合い、親友になったアイツが空港に迎えに来ないなんて!「あの野郎!」(笑)と思いながら彼に電話をしても、なかなか通じない。隣にいたアメリカ人に「頭に”03”を付けないとダメだよ」と教えられ、その通りにしてようやくヨシアキのお母さんに電話が繋がりました。

そしてヨシアキがいる南青山のデニーズへ。でも初めての日本だったから、そこと成田空港との距離が分からない。電車やバスについても全く分からなかったから、とりあえずタクシーに乗りました(笑)青山一丁目交差点に差し掛かったところで交番に聞き、デニーズにたどり着いて運転手さんに2万円払い(涙)店内に入ってお客さんたちに僕は「ヨシアキはいる?」。彼の友達でも何でもない彼らは「は?」。僕は店内を探し回り、ついに東京で再会を果たしました。

当時のレバノンは日本の外務省から危険視されていたから、日本での僕の身元引受人だったヨシアキに電話が入ったそうです。しかもビザ申請時に、僕の日本での行き先を全て日本大使館に伝える必要がありました。僕は日本が大好きだったけど、日本は僕のことが好きだったのか分からない – だから”片思い”なのです(笑)

あなたの宗教は?
3回目の訪日の前にフランス国籍を取得。日本に行く時の観光ビザ申請は不要になりました。そして4回目の訪日では半年間日本に滞在。パリで出会った日本人女性の家で開かれたパーティーに参加した時、ある映画監督と助監督に出会いました。彼らは僕のことを面白い人だと思ってくれて「ぜひテレビの仕事をやってみたら?」と僕に勧め、西麻布にある芸能事務所を紹介してくれました。僕は「チャンスがあれば日本に住みたい!」と思っていたから、事務所にビザサポートをお願いしました。でも彼らはYesとは言ってくれませんでした。

失意のうちにフランスに帰国した後、僕は日本のある物流会社がレバノンで進めていた、現地での日本食レストラン開店プロジェクトに参加。久々の母国に胸が踊りました。

でもこの経験を通じて、僕は母国を大嫌いになってしまったのです。

人と人が初めて出会う時。日本や諸外国なら「どうも初めまして、○○と申します」と挨拶しますよね。でもレバノンでは、人々は初対面の相手にいきなりこう聞いたのです -「あなたはムスリム?それともクリスチャン?」

なぜそんな質問をする?ムスリムの家系に育ちながらもクリスチャンスクールに通った僕にとっては、そんなことはどうでも良い。僕がフランスや日本に行っている間にレバノン内戦は終わったけど、人々の考え方は内戦前と全く変わっていなかったのです。

その上、母国は汚職にまみれていました。僕がパリからベイルートに送った自分宛の郵便物を、現地で受け取るために、郵便局員に賄賂を支払う必要があるほど。郵便でさえこの状況だから、レストラン建設など順調に進むはずがありません。レストランはレバノン経済にプラスに働くものなのに、必要な書類の作成や提出のたびに”Under the table”を役所から求められるから、作業が全然進まない。結局その会社は、レストランの開店直前でプロジェクトを中止しました。

彼らは僕に、今度はサウジアラビアに飛ぶよう命じました。会社が現地で所有する店のマネージャーとして、僕を派遣しようとしていたのです。サウジアラビアは僕の両親が住む国だから、二つ返事でOKしました。しかしいつまで経ってもビザが下りず、しかも母方の従兄弟が2人も立て続けに亡くなったから、気持ちが沈みました。僕は気分転換のために、再び日本に行きました。パパが僕の日本行きを止めようとしましたが、僕は制止を振り切って飛行機に乗りました。

夢中になった仕事
東京に着き、僕は以前出会った映画監督に呼ばれて荻窪へ。彼と、彼の彼女との同居生活でしたが、彼らが別れたことでその部屋から僕は追い出され、中野にある外国人ハウスに移りました。そして仕事を求めて西麻布の事務所に行った僕は、社長から空港でのアラビア語通訳を頼まれました。他にも僕は、すでに出会っていた都内の美術学校の先生からの紹介で、その学校でフランスの文化などを教えることになりました。しかも学校が僕のビザスポンサーになってくれたのです。

ちょうどその頃、僕はある大人気バラエティ番組のオーディションに受かり、事務所からも僕のビザをスポンサーするというオファーをいただきました。しかし僕は、美術学校にスポンサーをお願いしました。それは同時に、ゴールデンタイムの仕事を諦めるということ。人に何かを教えた経験は無かったけど、全ては僕のビザスポンサーになってくれたという御恩に報いるためでした。

しかし、ちょっとしたトラブルが元で、約1年半教壇に立った学校を離れることになった僕は、NHKで働いていたフランス人の女の子から誘われてNHKワールドラジオのフランス語パーソナリティに。その仕事が終わった後、NHKの報道局から呼ばれました。

当時NHKは、レバノンの宗教対立の実情に迫るドキュメンタリーを製作していました。フランスのテレビ局さえも触れようとしないテーマに、なぜ日本が取り組むのか – 僕は心の底から興味を持ち「やります!」。しかもレバノンでの取材を支えたコーディネーターは、偶然にも僕の幼馴染の日本人女性だったのです。それから約1ヶ月間ほぼ毎日、東京に送られるインタビューなどの映像を翻訳していました。

その後、僕が好きだったイラン人のマネージャーが辞めたため、その後継として僕が西麻布の事務所から呼ばれました。ビザはすでに持っていたので、スムーズに勤務に入ることができました。しかし、同時に入社したポーランド人スタッフと僕との相性が最悪だったため、ストレスを抱えた僕は、結局事務所を退社。その後外務省から請われる形で、職員へのフランス語指導を始めました。

エンドレスな報道現場
2001年9月のある日。仕事を終えた僕は、台風と大雨にさらされながら帰宅しました。浸水した部屋を掃除してから体を休め、その後高円寺でのプライベートレッスンへ。それが終わり、自宅近くまで帰ってきた頃、九州の友人から電話がかかってきました。

「今、ニュース見てる?」
「見てないよ。まだ家に着いていないから」
「ヒロシマとナガサキへの復讐が起きたんだ」
「何を言っているのか全然分からない」
「とにかくニュースを見てよ!」

僕は家まであと5分の距離を走り、帰宅して靴も脱がずに室内へ。そしてテレビをつけた瞬間・・・僕は言葉を失い、ただ呆然と画面を見つめていました。

2日後。草履で銀座を散歩していた時、僕の携帯電話が鳴りました。NHKからでした。

「今、何をしていますか?」
「特に何もしていません」
「じゃあ、今から局に来ていただけますか?翻訳をお願いしたいのです」
「分かりました。何時に行けば良いですか?」
「できるだけ早くお願いします」
「何時に終わりますか?」
「分かりません」

僕は近くのマクドナルドに入り、ビッグマックを一口で食べた後、急いで渋谷に向かいました。NHKの報道フロアに着くと、あちこちから「この映像を翻訳して!」の声。僕は様々なアラビア語の方言と格闘しながら、次々に舞い込む仕事に取り組んでいきました。その状況が約半年間続いた後、仕事はパタッと無くなりました。

ついに、倒れる
その後、要請に応じる形で西麻布の事務所に復帰。2003年2月、パリに住んでいた従姉が日本に来るため、2週間の休暇を事務所に申請しました。しかしそれが却下されてしまったため、僕は再び事務所を離れることにしました。

従姉との日本旅行を楽しんだ後、東京に戻ってきた矢先、再びNHKから電話。イラク戦争の勃発です。9.11の時と同じように「すぐに来て!」と言われ、初日は夜10時から翌朝7時まで翻訳作業に取り組みました。その後NHKには約1年半通いました。収入は悪くありませんでしたが、拘束時間の長さと勤務時間の不規則さに、体がおかしくなりそうでした。

仕事がひと段落した後、エジプト人の友人の紹介で、ある大手建設会社が行うアルジェリアでの高速道路建設プロジェクトの通訳業務に。気温40度、現地の人々の気質や食べ物が自分に合わず、心身ともにボロボロ。3年間の契約でしたが3ヶ月でギブアップしました。

日本に戻ると、西麻布とは別の事務所から声がかかり、再びエンタメの仕事に。マネージャーとしてキャスティング業務に就きましたが、約半年が経ったある日、自分の体調がいつもと違うことに気づきました。仕事に行こうとすると吐き気を催すように・・・僕はうつ病にかかってしまったのです。

時々NHKから入ってくる翻訳業務に取り組みながら体と心を休めました。その後”アラブの春”や”IS(イスラミック・ステート)”、母国レバノンで起きた”ベイルート港爆発事故”、そして今年(2023年)初めに起きた”トルコ・シリア地震”と、中東で大きな事件が起きるたびにテレビ局から呼ばれました。

どこにいようとも、常に中東情勢に翻弄される – これが、僕の人生です。

これからも日本で生きる
最初に言ったように、ニュースの仕事はいつ入ってくるか分からないから、気が抜けません。夜寝ようとしたら、ある民放テレビ局から「今すぐ来てください」と電話が入る。デート中に別の民放テレビ局から「今すぐ来てください」と電話が入り、彼女の理解を得て局まで急いで行ったら「すみません、このニュースは無くなりました」と言われる・・・しかもこの仕事は、忙しい時はお金は入ってくるけど、休んだり遊んだりする時間が無い。一方でプロジェクトが急に終わって暇になると、時間はあるけど収入が無くなる。肉体的、精神的、経済的にとても不安定な状況が、僕が日本に住み始めてからずっと続いています。

扱う情報はネガティブなものばかり。その上日本の一部の報道機関の視野の狭さにも落胆しました。ベイルートでの爆発事故発生時、あるテレビ局からカルロス・ゴーンの実家の被害状況を調べるように言われました。ベイルートには僕の愛する家族を含め、たくさんの人たちが住んでいる。ゴーンだけでは無いのです。怒った僕は言いました。「他のベイルート市民の命は、あなたたちにとってどうでも良いのですか?」。

一方で僕はタレント活動をしていますが、それはきっと精神的なバランスを取るためだと思います。僕は「今までで一番楽しかった仕事は何ですか?」とよく聞かれますが、必ずこう答えています。「今の仕事が一番楽しい!」。これまで僕は、高視聴率のドラマに数多く出演させていただきました。でもそれらはもう終わったこと。今の仕事はもっと楽しいし、次の仕事はきっともっと楽しくなるでしょう。

それに、カメラの前に立つと自分のことを忘れることができる。殺し屋のような、自分とは全く違う人間になれる・・・というか、なりたい!違うアイデンティティが欲しい。別に子どもの頃からの願いではなく、日本でエンタメの世界に入ってから感じるようになったことです。しかもエンタメだといろんな人たちに出会います。それこそすごく頭が良い人からすごくアホな人まで、世界で一番優しい人から人格的に最低の人まで、大好きな人から〇したくなる人まで(※〇に入る漢字はご想像にお任せします)。それに面白さを感じるのです。

この日本では、好むと好まざるとに関わらず、僕は目立つ存在。でもそれは、僕にとってプラスに働いています。だから僕は、これからも日本に住み続けるつもり。「日本人は”平和ボケ”だ」と世の中で言われているけれども、僕は言いたいんです。

「平和ボケは最高だよ!みんな平和ボケになれよ!」

メクダシさんにとって、東京って何ですか?
”何でもある街”ですね。最高から最低まで、近代から伝統まで、全てそろっています。
でもまだ足りないものがあります。僕はアラブ料理が好きだけど、東京にはまだまだそのレストランが少ないし、残念ながら値段とクオリティが合っていません。欲を言えば、フレンチレストランももう少し安いお店が増えてほしいですね。

あともう少しだけ、東京が国際的になってくれたら、言うことないです!

メクダシさんにとって、日本って何ですか?
”わ”の国です。
日本はあらゆるものを作っていますが、それらは日本で発明されたものではないですよね。でも改善に改善を重ねて、世界中が”WA!”と驚くものを生み出してきました。ハードだけでなくソフトについても、日本のアニメやマンガ、バラエティ番組が世界中を”WA!”と驚かせています。実際に僕がサウジアラビアに住んでいた頃、若い人たちが皆『風雲!たけし城』を見ていたし、TBSが行ったドバイの王子のインタビューに同行した時、彼は子どもの頃に『たけし城』に夢中になったと言っていました。

そして僕は、この日本であらゆる国々から来た人たちに出会いました。レバノンやフランスでは出会ったことが無かった、アフリカや南太平洋の小さな国々から来た人たちにも。そんな国際的な”輪”を広げることができたのは、僕が所属していた芸能事務所のおかげですね。

日本は”和”の国、”輪”の国、そして”WA!”の国です。

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