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【インタビュー:多文化をチカラに㉒】スマン ゴラさん(医療関連会社勤務)2023.07.12 |
My Eyes Tokyoの協力のもと、日本で活躍する外国にルーツを持つ方々へのインタビューを紹介していきます。
https://www.myeyestokyo.jp/61390
母国の医療に貢献する – この夢があるから、辛いことがあっても日本で頑張れるのです。
今回は、私たちの数年来の友人を紹介します。ネパール出身の好青年、スマン ゴラさんです。
スマンさんと私たちは、共通の友人である実業家、永田勝也さんを通じて知り合いました。永田さんは自らの事業を行いながら、日本や世界を理解するためのプレゼンテーションや、国内外から来た人たちに向けて日本文化をカジュアルな形で紹介するイベントを数多く実施。それらに参加するうちに、当時学生だったスマンさんとの親交は深まっていきました。
コロナ禍のためにイベントから遠ざかった頃、あの頃の熱気が懐かしくなり、私たちはスマンさんに連絡を取りました。数年ぶりに再会したスマンさんは、すっかり落ち着いたジェントルマンに。とても優しい口調から発せられる、真面目さとまっすぐさを感じさせてくれる彼のエピソードの数々を、いつまでも聞いていたいと思いました。
眼中に無かった日本
私は現在、都内にある医療関連会社に勤務しています。業務は主に検査のための検体収集および業務に伴う国際間連絡で、コロナ前はインドから収集した血液検体の検査、コロナ後は主に国内のPCR検査事業に取り組んでいます。インドの人たちから採取した血液の検査を請け負うのは、日本での血液検査が非常に精密に行われるからですね。またこの会社はインドに子会社を持ち、現地で医療機器などを販売しているため、連絡業務は入社以来現在も続いています。来日前は大学院生で、日本に来てから日本語学校やビジネス系専門学校を経てその会社に入ったので、私がこれまで唯一、社会人経験を積んできた場所と言えます。
私が日本に来た理由は、とても単純。私の従兄が先に日本に来ていたからです。
私がネパールで経済学を研究する大学院生だった頃、母国のネパールでは若者たちが学校を卒業後に海外へ学びに行くようになり、私の周りでも実際にイギリスやオーストラリアに渡った人たちが数人いました。中には日本の福岡県に行った人も。私はその波に乗り、海外の会社に就職することも、進路として考えるようになりました。
当時は日本を行き先として全く考えておらず、ターゲットはアメリカやカナダ、オーストラリアといった英語圏の国。しかし身近な存在だった従兄が神戸に行ったことで、私は日本も視野に入れるようになりました。
「日本語って難しい?」と従兄に相談し、彼から「いや、難しいのは最初だけだよ。日本語が分かれば、日本は住みやすいところだよ」と聞いてだんだん興味を持ち、一方で自分でも日本の学校の学費を独自に調べ、アメリカなどのそれよりも若干安いことを知りました。ネパールと同じアジアの国であることでさらに親近感を持ち、日本語を学ぶために日本に行くことを決め、修了後に日本にやって来ました。
運命を変えた”神楽坂”
日本に来る前、私には3つの選択肢がありました。1つ目は私の兄が営んでいた、結婚式やイベントのためのテントやステージの設営およびケータリングを行う会社の手伝いをすること、2つ目は地元の会社に就職すること、そして3つ目は海外に行くことです。あらゆる要因から日本に来ることを選んだ私は、日本語を学ぶ期間として”2年間”だけ日本にいようと決め、都内の日本語学校で学びました。
日本に住み始めた頃は、なかなか住む部屋が見つからなかったり、私が日本語が分からない人だと思われてお店の店員さんから邪険に扱われたりしたこともありました。しかしやがて「2年じゃ足りない。もっとここにいたい」と思うように。私は日本語学校を卒業後、ビジネス系の専門学校に入学しました。
専門学校で学ぶ間、私は法律で決められた時間の範囲内で、神楽坂にあるカフェでアルバイトをしていました。専門学校を卒業したら母国に帰るということを考えたこともありましたが、せっかく4年間かけて日本で学んだことや、習得した日本語の知識が活かせなくなるのはもったいないと思い、日本に残って就職することを決意。就職活動をし、私は北海道にあるIT企業から内定を獲得。しかしその会社に入るべきか迷っていたため、カフェのオーナーに相談しました。
その人こそが、今も私が勤務している会社の社長です。彼はカフェと会社の両方を経営しており、会社では海外事業部を立ち上げようとしていました。そこで母国語に加えて英語と日本語が話せる私に「それならウチの会社で働いてみないか?」と提案してきたのです。私は強く興味を持ち「入ります!」と言いました。
そして私の入社とほぼ同時期に、海外事業部がスタート。スリランカや中国、ウズベキスタンやロシアなどから来た人たちと共に、その会社の新たな挑戦に取り組みました。
「日本人に代わって」
私が入社した頃からしばらくは、インドから血液検体を取り寄せていました。しかしコロナウィルスが日本に広がってからは、PCR検査の受注を増加。そのためこの2~3年間は、血液検査の代わりに国内でのPCR検査事業に関わっています。
私自身は検査そのものには従事せず、検査関連事務を担当します。とはいえ人の命に関わる仕事であることに変わりありません。なぜなら検体を取り違えたり、検査結果報告書に別の人の数値を記入してしまったりしたら、治療などその後の対応が全く違うものになり、命を奪うことになりかねないからです。もちろんそのようなミスを防ぐ仕組みはありますが、それに依存せず”きちんと””間違えないように”作業に取り組むことを心がけています。
使う言語も以前は英語が中心だった一方、2020年以降は日本語が多くなっていますが、医療関連機器をインドに販売する子会社との連絡業務があるため、今も全体のコミュニケーションの3割程度は英語で行われています。インド側で作成された英語の書類を日本語に翻訳することがあり、そんな時は英語スキルのある日本人上司の助けを借りて行います。
仕事を通じて、私の日本語能力はかなり磨かれたと思います。だけど先ほど言った、お店の店員さんなどから”日本語の分からない人”として接せられることは、今でもありますね。また取引先などからの電話を私が取る時、相手から「日本人に代わってください」と言われることも。そのたびに、心に棘が刺さる思いがします。もしかしたら、私が相手のご期待に沿う話し方をしていなかったからかもしれませんが・・・
でも辛いことばかりではありません。検査業務が中心とはいえ、それ以外のインド子会社との連絡業務や会議の通訳業務については日々その内容が変化し、私自身も会社内を動き回るので、1日中パソコンの前に座って作業するよりは自分に向いています。それがとても楽しいですね。
母国の医療に貢献する
私はこれまで10年以上、日本で暮らしてきました。それは日本、特に東京のような都会では、公共交通機関が定刻通りに到着したり、区役所での書類発行の手続きがスムーズに行われたりするなど、余計なストレスを感じずに生きていけるからです。
これからは”母国に日本式の検査センターを作る”という夢に向かって、日本で仕事を続け、経験を積みたい。日本並みに厳しい管理下に置かれた検体に対し、極めて精度の高い検査が行われるような施設をネパールに設ける – すでに社長にも話し、彼からは「あなたがそれを本当にできるのなら、私は出資するよ」というお言葉をいただいています。
日本での経験を、母国の医療環境向上に役立てる – それが私の夢です。
スマンさんにとって、日本って何ですか?
”おもてなし””平和””住みやすい” – これら全てがそろっている場所だと思います!