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【インタビュー:多文化をチカラに㉗】北川由弘さん(会社経営者/元難民)2023.11.22 |
My Eyes Tokyoの協力のもと、日本で活躍する外国にルーツを持つ方々へのインタビューを紹介していきます。
https://www.myeyestokyo.jp/61806
たくさんの人たちのおかげで、難民だった私は日本で生き抜くことができた。私が出会った人たち全てに感謝しています。
私たちMy Eyes Tokyoは、これまで様々な国々から日本にやって来た人たちにインタビューしてきました。その中には難民と呼ばれる人たち、そして難民を支援する人たちもいます。今回ご紹介するのは、難民として日本にたどり着き、その後会社の社長にまで登り詰めた北川由弘さんです。
今年(2023年)春にインタビューした、シンガポール出身の起業家アウ ワンピンさん。彼女が北川さんのことを教えてくれました。「難民から社長にまでなった人が取引先にいます。そんな人、聞いたことありますか?」その一言に俄然興味を持った私たちは、ご本人の許可を取られた上で教えていただいた携帯番号にテキストメッセージを送り、やがて直接電話で会話。いつも明るく話す北川さんに早く会いたいと思いながら、後述するように彼に急に仕事が入ったり、私たちもカナダに視察旅行に行ったりするなどして、なかなか会えない日々が続きました。しかしまだ暑さが続く秋、ようやく北川さんにお会いすることができました。
待ち合わせ場所の京成成田駅で私たちを見つけた北川さんは、大きく手を振りました。車を運転しながら、お昼ご飯を食べながら、そしてご自身の会社を案内しながら、いつも快活にお話する北川さんでしたが、母国を出た頃の記憶を辿られた時、一転して憂いを帯びた表情を浮かべました。
”奪い合い”の時代に生きる
私はバス会社を経営しながら”ドライブガイド”として活動しています。マレーシアやインドネシア、香港、台湾を中心に世界中から日本に来た人たちがお客さんです。
私がこの仕事を始めた約15年前は、運転と案内の両方ができる人はまだまだ少なかったのですが、今は競争が激しくなっています。特に中国からの観光客を相手にする人たちですね。彼らは若いし、車もきれいな高級車を持っています。WeChatでお客さんと直接やり取りし、支払いまでそれで済ませてしまう。しかも一日に都心と成田空港を5~6往復するほどの体力を持っています。今お客さんが大事にしているのは”安い””運転手がハンサムで若い””車が新しい”ですね。
でも一方で、その前の添乗員時代を含めた私の長年の経験と、これまで築いてきたネットワークで、会社のウェブサイトやSNSを持っていないにもかかわらず、今も口コミで仕事が入ってきます。それはありがたいことですが、夜に旅行会社から電話で「明日お願いします」と依頼されることも。やはり疲れますし、体が持ちません。自分だけで対応し切れない場合、他の運転手にもお願いしたいですが、今は運転手さんが不足している。私はバスを複数台持っていますが、それらを貸す相手がおらず、結局私自身が運転するしかありません。
私はまさか自分が、会社の社長になることなど想像したことがありませんでした。これまで私は、旅行の世界で十分仕事させてもらったと思います。限られたパイを奪い合うような今の状況に、私は積極的に入っていこうとは思いません。たとえ仕事が少なくても、自分が暮らしていける程度の収入が得られれば、それで満足なのです。
戦場に行かないために
私はいわゆる”難民”として日本に来ました。出身はベトナム最大の都市ホーチミン、かつてのサイゴンです。私だけでなく、一家全員が難民として世界中に散らばっていきました。私を含めてきょうだいは6人いますが、フランスへ1人、オーストラリアへ1人、アメリカへ3人、そして日本に来た私です。またラジオやカセットテープなど日本の製品を輸入しベトナム駐留米軍などに供給していた親父、そして母も難民としてアメリカに行きました。
私と日本とのつながりは、ベトナム時代にまでさかのぼります。私たちの家のすぐ近くに、神戸出身の日本人が住んでいたのです。その人は親父と一緒に日本から空調機を輸入し、サイゴン周辺の病院に納入していました。戦争が長期化すれば、私はやがて18歳となり徴兵されてしまう – そう思った親父は、その人に私を養子として引き取ってもらうようお願いしました。そうすれば、私は”外国人”と見做され、徴兵されずに済むからです。こうして私は”北川”というその人の姓をいただき、その人から日本名を付けられ”北川由弘”となったのです。
毎朝6時、べトコンのテロリストたちが、メコン川の向こうに広がるジャングルから私たちの住むサイゴンに迫撃砲を撃ち、その度に自宅にあった地下壕に駆け込む – 私たち家族は身の安全と、人間らしい暮らしを求めて母国からの脱出を決意しました。
一家離散
長さわずか5メートルから10メートルの船に何十人も乗り、嵐の中を自由を求めて新天地へと向かっていく。海賊たちが潜む荒れた海に出て、何万人もの人たちが命を落としました。しかも当時のベトナムでは、難民として国を脱出するのは犯罪です。
それらの危険を顧みず、死をも覚悟して最初に母国を出たのは、一番上の姉とその夫でした。
1975年の終戦直前、姉の夫が周囲の人たちからお金を集め、漁村で小さな船を購入。出資した人たちが姉や彼女の夫と船に乗り込み、母国を脱出しました。その後彼らはマレーシアの難民キャンプへ。国際赤十字に難民申請をし、受け入れ枠があったオーストラリアへの移住を決意。飛行機でシドニーへ渡りました。
フランス国籍を持つベトナム人と結婚していた3番目の姉は、サイゴン陥落の1か月前、夫の国籍により飛行機でフランスのパリへ脱出することができました。
2番目の姉と夫、弟はサイゴン陥落後、船で脱出しタイの難民キャンプへ。その後パリに飛行機で渡り、現地で2年間暮らすも彼女の妹、つまり3番目の姉、そしてその夫との再会は果たせなかった。失意を抱えてオーストラリアのシドニーに移り2年間生活し、その後アメリカのサンフランシスコへ渡りました。
一方、親父や妹は、誤って政府の船に乗ってしまったのです。彼らはベトナムの刑務所に数年間収容されました。その後国際難民法による恩赦により解放され、米サンフランシスコに送られました。
母は実家が政府に没収されるのを防ぐため、親父が刑務所を出るまでそこに留まりました。親父の出所後、母は国際赤十字が手配した飛行機で共にホーチミンからサンフランシスコに向かいました。
妹は親父より1~2年ほど早く刑務所を出た後、約10人の難民と共に汽車で国境を越えて中国へ。北京のスウェーデン大使館に駆け込むも、まだ当時のヨーロッパはベトナムからの難民を受け入れていなかったため、そこからサンフランシスコへと送られました。
そして、僕の番が来た
ベトナム戦争終結後、すぐにカンボジアとの戦争が勃発。旧南ベトナム地域の学校は閉校になったため学校に行けず、社会体制は資本主義から共産主義に変わり、その上アメリカからの経済制裁により人々は貧しい暮らしを強いられました。仕事も無く、失業率はほぼ100%。希望が見出せない状況に、いよいよ私自身も母国脱出を決意しました。
ベトナムでは、一家の長男は家族から特に大切に扱われます。私は長男だったため、小さな船ではなく、幸運にも2番目の姉と同じように飛行機に乗せてもらうことができたのです。一刻も早く国を出たかった私は、未知の場所である日本に行くことに全く不安はありませんでした。最後まで残った母や姪と別れる時は、悲しかった。私は「3年経ったらベトナムに戻ってきます」と言いました。
1978年7月、18歳の少年だった私は北川さんと一緒に、日本人を含むベトナムからの脱出者を乗せた飛行機に搭乗。ホーチミンを飛び立ち、マニラや台北、那覇を経由した後、当時開港したばかりの成田空港に降り立ちました。
もちろん私は、先に脱出した家族のことがずっと気になっていました。しかし難民キャンプへは連絡の取りようがありません。彼らから私のもとに手紙が届いたのは、私が日本に来てから5~6年後のことでした。
「あなたはべトコン?」
私は北川さんに連れられ、当時彼が借りていた吉祥寺のアパートへ。その道中で見かけた日本人の女性たちの肌の美しさに魅了され、私は「将来は絶対に日本人と結婚しよう」と思いましたね(笑)そしてアパートで北川さんとの共同生活が始まりました。
全く日本語が理解できなかった私は、四谷にある日米会話学院に3年間通い、日本語と英語を学びました。またその後、親父の知り合いの勧めで蒲田にある日本電子工学院にも通い、家電修理を専攻しましたが、計算ばかりで興味が持てず、結局1年で中退。それらの学費は、かつて私の親父や北川さんと一緒に仕事をしていた香港の貿易会社が奨学金として出してくれました。
一方で所持金がほとんど無かった私は、日比谷や銀座にある喫茶店や中華料理店で皿洗いを開始。職場の同僚から聞かれました。「あなたはべトコンだったのですか?」私は答えました。「いえ、違います」。彼は重ねて聞きました。「なぜ、そんなにお金が無いのですか?」。「ベトナム戦争で南ベトナムが負けて、家族の財産を全て旧北ベトナム政府に没収されたからです」。そして私は彼に言いました。「一生懸命働いて、いつかあなたに追いつくからね」。
ある日、近所に住んでいた日本人の知り合いから言われました。「添乗という仕事に興味は無いですか?今、ちょうど香港や台湾から日本に来る人たちが増えています。個人客だけでなくツアー客もいますから、そのツアーに参加して添乗を学んでみませんか?」と。そして私はその人に連れられ、香港に本社がある旅行会社の東京支社へ。そこで私は、早稲田大学卒の支社長に会い、言われたのです。「あ、あなたは私と同じ国から来たんですね!」。その人はベトナム人でした。こうして私は、旅行の世界へと足を踏み入れたのです。
インバウンド、40年前
「早速、来週1本ツアーがあるから、あの人に付いて勉強してください」。そう支社長から言われ、私はマレーシア出身の先輩添乗員に付き、今で言うインバウンドツアーに参加しました。お客さんは主に香港から来た人たちで、広東語と英語で案内するというもの。その後も先輩と一緒に3~4本のツアーに参加し、先輩の動きを見ながらメモをしたり、また滞在先で彼から教えてもらったりしながら、添乗の仕事について学んでいきました。
やがて添乗員として独り立ちし、会社から業務を請け負いました。私はお客さんと会話しながら、広東語や北京語を学んでいきました。おかげさまで今では、これらの言葉をネイティブ並みに話せます。しかも私はその先輩と、今でも時々一緒に仕事します。もう40年以上の付き合いですね。
長い間、私はフリーランスとして、主に香港やシンガポールなどの旅行会社が企画するインバウンドツアーに添乗しました。しかし、やがて競争相手が増え、仕事が減少。今から約15年前、2008年頃のことです。私は添乗員をしながらバスドライバーたちの動きを見ていたので、当時はまだ数が少なかった、自分で運転しながらガイドをする”ドライブガイド”に舵を切ることにしました。
倒産からの復活
私はしばらくの間、個人事業主として自分一人でドライブガイドをしていました。ただ一方で、都内ではハイエースなど大きな車を置ける場所が限られ、また駐車場代が高いという問題に直面。どうすべきか悩んでいた2010年、私の添乗員時代の”戦友”だった、香港出身の添乗員さんに再会しました。千葉県八街市に住んでいた彼を車で送った時、彼のご自宅や広い敷地を見て、郊外で事業をすることを思いつきました。私は彼が家を購入した不動産会社に行き、数百万で販売されていた千葉県富里市の一軒家に目が留まりました。聞けば、成田空港まで車で15分という好立地。私は迷わずその物件を購入しました。地元で安く請け負ってくれた業者さんにお願いし、ボロボロの家をリフォームし、ぬかるんだ敷地を整備。ハイエース1台を置き、そこを拠点に活動しました。
一方2017年、私はバスの運転手さん3人と一緒に株式会社を立ち上げました。都内なのに月々約18万円でバスを10数台置けるほど駐車料が安い、埼玉県との境にある清瀬市にアパートを借り、そこで会社を登記したのです。25人乗りのバスの新車を2台と、新車のハイエース1台を私がお金を出して購入し、彼らが持っていた中古のバス2台を加えて事業を開始。他にも事務所の家賃や駐車料も私が負担していました。しかし翌年にコロナが日本を襲い、ツアー客がゼロに。私が出資した資本金を使い果たした上に借金もしたため、事業を続けられなくなり、会社を畳むことにしました。
ちょうどその頃、地元の不動産会社からの紹介で、自宅から約3キロの場所にある一軒家を格安で購入。当時私の手元に残っていた、自分の資金で購入したバス2台とハイエース1台、そしてその一軒家で私は再起を図り、自分の名前を冠した会社「北川サービス」を立ち上げました。
会社の敷地にはバス2台とハイエース1台が駐車。バスは他の運転手が借りることもできる。
バス運転手さんの休憩室も完備。
人は一人では生きられない
「3年後にベトナムに戻ってきます」。そう母や姪に伝えてから、あっという間に45年が経ちました。その間にも10回以上、母国を訪れました。しかし私たち家族が住んでいた家は、私たちが難民として世界各地に離散した後、ベトナム政府に没収されたため、今はありません。もし私がベトナムに残ったとしたら、あくせく働かずに済んだかもしれません。ベトナムではメイドさんを雇うのが普通なくらい、余裕のある暮らしができますから。
それでもやはり、これまで日本で暮らしてきたのは正しい選択だったと思います。日本に慣れてしまうと、いくら母国への愛があっても、現地の気候や食べ物が体に合わなくなるでしょう。
もし私が、八街に住む香港人の元添乗員に再会しなかったら、富里の一軒家は無く、暮らす場所さえ無く、私の人生まで終わっていたかもしれません。同じように、私はたくさんの人たちからの助けと支えで、今まで日本で生き抜くことができたのです。今まで出会った人たちに心から感謝しています。
北川さんにとって、日本って何ですか?
信頼できる国ですね。私にとって”第二の母国”です。
ただ長い不況で人々は貧しくなり、お給料も他の先進国に比べて低いまま。それらのせいで貯金を使い果たしたからか、”オレオレ詐欺”のように、他人を騙す人たちが出てきました。これからは、頭の堅い年配層が社会の表舞台から降りて若い人たちにチャンスを提供し、彼らが少しでも豊かな生活が送れるような環境を作るべきですね。一方で若者たちも、語学などの勉強をした方が良いと思います。
それでも私は、今も日本は良い国だと思っています。街もトイレも清潔で、女性が夜に一人で歩いても大丈夫なほど安全。人々は穏やかで、他人の悪口を言わず、ルールやマナーを守ります。あたかも日光にある”見ざる聞かざる言わざる”と同じ。あれこそが日本の教育の真髄だと思います。
これからもこのような日本や日本人でいてほしいです。