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【インタビュー:多文化をチカラに㉛】チョウドリ・エムディ・レザウル・カリムさん(蕎麦職人/蕎麦店経営者)2024.02.05 | 

My Eyes Tokyoの協力のもと、日本で活躍する外国にルーツを持つ方々へのインタビューを紹介していきます。
https://www.myeyestokyo.jp/62095

長年の夢まで叶えてくれた蕎麦は、私の人生そのものです。

ある日偶然見た、過去に私たちがインタビューさせていただいた方のSNSへの投稿。神奈川県横須賀市でインドネシア人技能実習生向けのカフェを営む嘉山仁さんが、昨年(2023年)11月に「バングラデシュの方がやっているめちゃくちゃうまいお蕎麦屋さん」をご紹介され、私たちの好奇心が刺激されました。

そのご投稿を拝見してから約2週間後、私たちは神奈川県逗子市、JR逗子駅そばにあるお店「石臼そば」を初訪問。夜もたくさんの人たちで賑わっていたそのお店で、定番メニューの天丼と盛りそばのセットを注文。

その美味しさに感動した私たちは、店員さんにお願いし、店主さんをお呼びいただきました。それが今回ご紹介するムハンマド・チョウドリさんです。

早速インタビューをお願いし「年越しそば作りを終えた年明けならできますよ」との言葉をいただいた私たちは、正月を過ぎた頃に再びお店を訪問。嘉山さんお勧めの”カレーそば”をいただき、辛口のカレーと蕎麦が生み出す意外なまでの絶妙なハーモニーに感動しながら完食した後、チョウドリさんに再会。その翌々日にお話をお聞きできることになりました。

何も持たずに身一つで来日し、日本の風土に溶け込みながらも、空気を読み何事も穏便に済ませようとする企業社会で一人気を吐く日々。やがて日本人でも究めることが難しい蕎麦の世界で職人として独立し、うまい蕎麦と大繁盛の名店を作り上げました。

ひとしきりこれまでの紆余曲折を語っていただいた後、日本の食文化を愛して止まないチョウドリさんが口にした言葉。それは、バングラデシュ出身の蕎麦職人の存在以上に意外なものでした。

蕎麦は粉から作るもの
蕎麦職人になってから24年経ちますが、1日たりと同じ蕎麦ができたことはありません。一昨日、昨日、今日と気温が違うから、まるで毎日が化学の実験のよう。だから楽しいですね。

今は石臼がありますが、2002年の開店当時はありませんでした。私が蕎麦作りを学んだ神奈川県小田原市の久津間製粉さんから粉を取り寄せてはいましたが、それを使い切るまでに水分や香りが飛んでしまいます。自分が蕎麦職人を目指した、その原点を思うと、誰かからいただいた粉で蕎麦を作るのは面白くない。粉から作らなければ意味が無いと思い、石臼を購入。それ以来、久津間製粉さんから蕎麦の実を取り寄せ、それを店で挽いて蕎麦粉を作っています。

店の入口近くに置いてある石臼で蕎麦の実を挽く。

こうして出来た蕎麦粉10割に、つなぎの大和芋を加えた”外割蕎麦”を創業以来提供しています。

辛いものが苦手
私が日本に来たのは、経済学を学ぶ大学生の頃に言われた、ある人からの言葉でした。すでに日本に留学していた、私の地元の先輩が「日本って、いいよ」と私に言ったのです。

私は思い出しました。小学生の頃、社会の授業で広島・長崎の原爆のことを知り、日本に興味を持ったことを。しかも学校では、それぞれに原爆が投下された日に、黙祷をしていたのです。それから時が経ち、先輩の「君も日本に来てみなよ」という一言や、周囲の同世代の人たちが日本にたくさん留学していたことに背中を押され、私はこの国へとやって来ました。

バングラデシュ人は比較的のんびりしている性格で、待ち合わせの時間に遅れることもしばしば(笑)一方で時間に正確で規則を守る日本人の性格に「人間、こうあるべきだ。時間は守るためにあるんだ」と私は確信しました。しかも私は、昔から辛い食べ物が苦手(笑)家族の中で、父と私だけが辛くない料理を食べていました。そんな私は、すんなりと和食と日本での生活に馴染んでいきました。

蕎麦との遭遇
都内の大学や日本語学校に通いながら、私はアルバイトにも精を出しました。昔から料理が得意だったこともあり、ムスリムであるためにお酒が飲めないながらも、居酒屋さんで働きました。しかもそこは東証一部上場の企業による経営で、450席という大店舗。茶髪やピアスは厳禁、余った食材や売れ残りのメニューはすぐ捨てるよう命じられる厳格な職場で、私はバングラデシュ時代に全く食べたことが無かった和食を、実際に厨房に入って作りながら学んでいきました。

そんなある日、通っていた日本語学校の文化紹介の授業の一環で、先生やクラスメイトと神奈川県小田原市に行きました。お昼ご飯を皆で食べようと食堂を探しましたが、辺りにあったのはお蕎麦屋さんだけ。お店に入り、蕎麦ができるのを待っている間、先生が私たちに聞きました。「蕎麦って知ってる?」。私たちは「知りません」。居酒屋で働いていた私ですら知らなかった蕎麦について、日本では子どもからお年寄りまで皆食べるもので、消化が良くて栄養価も高く、年越し蕎麦や引っ越し蕎麦など縁起を担ぐ目的でも食べられることを、先生が説明してくれました。

その後食事が皆の席に運ばれ、私が注文した盛り蕎麦を食べて衝撃を受けました。「1本1本の蕎麦はすごくシンプルなのに、そばつゆにつけたらすごく美味しい!」。

東京に帰ってきてからも蕎麦のことが頭を離れず、図書館で調べました。居酒屋が無かった江戸時代は、お蕎麦屋さんに皆集まってお蕎麦や天ぷらを食べながら日本酒を飲んでいた – 居酒屋でアルバイトしていた私にとって、そのような歴史もとても興味深く感じました。だんだん居ても立っても居られなくなり、私は職場の同僚や料理長に「蕎麦を作ってみたいんですけど・・・」と言ったら「無理だよ!日本人でさえもできないんだから、そんなこと考えない方が良いよ」と反対されました。

店で修業ができないなら・・・
その言葉を聞いて「それにチャレンジするのが私なのだ!」と、俄然やる気に火がつきました。例えば刺身や焼鳥は、素材を自分で作らず、すでにあるものを切ったり焼いたりするもの。もちろんそれらにも技術は必要です。でも蕎麦は、ゼロから自分で作ることができる。だから挑戦したいと思ったのです。

「あなたには無理だよ」という声が大多数だった一方、普段の私の仕事ぶりを見ていた人たちは「あなたにはできるかもしれない。蕎麦屋さんでアルバイトしてみなよ」とも言ってくれました。それで実際にお蕎麦屋さんを何軒か周りましたが、彼らからは「ガイジンのあなたには無理だよ!」と門前払いを食らいました。

そこで私は発想を変えました。「蕎麦屋さんで雇ってもらえないのなら、自分で蕎麦屋を開いてしまおう!」

しかも蕎麦を、私は実や粉から追究しようと思いました。ソバの実は北海道や長野県といった遠方で栽培されるので、実を粉にする工場を見ようと、アポ無しで訪ねました。電話をしたら断られる可能性が大きかったからです(笑)近県にある2~3ヶ所の工場で見学を断られた後、小田原の久津間製粉さんを訪問。度量の大きい会長さんが、私を工場に招き入れてくれました。この店にあるものの5倍くらいある石臼が何台も回っている風景に圧倒された後、そこが開いていた蕎麦打ち教室の貼り紙を発見。こんなチャンスは無いと思い、会長にお願いしてみました。

「実は私は、蕎麦屋を開きたいのです。だからここで蕎麦作りを学ばせてもらえませんか?」
「本当にできるのか?」
「はい、やります!」

”自分の味”を求めて
私の意気込みを買ってくれたのか、会長は私に工場長を紹介してくれました。こうして私は、工場長が講師を務める蕎麦打ち教室へ。修業に何年もかけていられないと思った私は半年間、短期集中で真剣に学びました。居酒屋での和食作りの経験が生きたのでしょうか、ある日教室に来た会長が私の打った蕎麦を見て「もう大丈夫だよ。店を探しな!」と私に言いました。

一方「もっと和食を学びたい」と思った私は、知り合いに大企業の社員食堂を紹介してもらいました。そこのシェフはとても厳しく、スタッフに注意するときに熱いフライパンを投げるような人。「なんでこんなことをするのだろう?」と不思議に思いながらも、彼に興味を持ちました。必要なものが手元に揃っていない時に怒り出すシェフを見て、食材や調理道具の管理を居酒屋で学んだ私が彼のアシスタントを買って出ました。やがてシェフが不在の時に、彼と同じ仕事を任されるように。しかも、後で分かったことですが、そのシェフは皇室の晩さん会に出す料理を作るほどの人だったのです。

その人にも「ゆくゆくは蕎麦屋をやりたい」と話したところ、最初は「大変だよ!」と言われましたが「頑張りなさい」と励まされました。その時はすでに蕎麦打ちの修業をしていましたが、蕎麦つゆについては学ぶ機会がない・・・そう私が漏らすと、シェフはサッと蕎麦つゆを作って差し出してくれました。私はそれをなめて味を確かめましたが、シェフはその作り方を全く教えてくれなかった。だから自力でその味を再現するしかありません。何度もつゆを作ってはダメ出しされ、その度に私は燃えました。シェフはそうやって「自分しか出せない味を作りなさい」と教えてくれた。そしてある日、私が持って行ったつゆを持って行った時、シェフがニコッと笑い「いいんじゃない」と言ったのです。

チョウドリさんの修業の集大成とも言うべき、盛り蕎麦とまぐろ丼のセット。

「お店を間違えた」
「これで蕎麦屋が開ける!」そう思った私は、物件探しを開始。居酒屋時代から付き合いのある、神奈川県逗子市に住んでいた人と仲が良く、時々逗子に遊びに行っていました。私は花粉症のため、お医者さんから川や海のそばに住むことを勧められていたし、何よりも景色が良く、空気もきれい。そんな逗子の街で、私は蕎麦屋を開くことを考えました。そしてJRの線路際にあった、和食店だった物件を見つけました。

それは普通の住宅街にあり、しかもその物件では2回閉店しているため「そこで店を開かない方が良い」とおっしゃる人も。でも私は「無理!」と言われたら燃えるタイプです。料理が美味しければ、どこに店を開いたとしても人は来る。もし誰も来なかったら閉店すれば良い – そう腹をくくり、仕事で貯めたお金で、私の店「石臼そば」を開きました。当時は私の打つ外割蕎麦が時間が経つと崩れやすくなるため、1日40食のみの提供でした。

しかし、お客さんが来ない日々。店に誰か入ってきたと思ったら、私の顔を見て「間違えました」と言って去っていく・・・そんな状況が約1年続くうち「店に入っちゃったからしょうがない」と言って席に座ったお客さんが、私の作る蕎麦を食べてその美味しさに衝撃を受けた。その人たちから私の蕎麦の評判が広がり、より多くのお客さんに来ていただけるようになったのです。


お店ではチョウドリさんが打つうどんも提供。

揺れる思いを乗り越えて
やがて同じバングラデシュ出身の弟子ができ、彼に石臼そばを任せるように。一方で私は、閉店寸前だった横浜・関内の蕎麦屋からお声がかかり、その立て直しをお願いされました。私がその厨房に入ってから2週間ほどで行列が出来るという快挙。しかし私が留守にしているうちに「石臼そば」のお客さんが減ってしまったのです。

「逗子の店を閉めて、横浜に行きなよ。横浜の方がお客さんがたくさん来るよ」。そんな声に従うように店を閉め、横浜の店に専念しました。しかし東日本大震災の発生時に横浜におり、何とか捕まえたタクシーで逗子まで帰ってきた経験から「人々が働く場所よりも、人々が帰ってくる場所で店をやりたい」という思いが蘇り、再び逗子で物件探し。かつてパブだった空き店舗をJR逗子駅近くに見つけ、私の蕎麦を食べたことのある人が勤務していた金融機関から融資を得て物件を購入し、再スタートを切りました。

私はこれまで、蕎麦一本でやってきました。だから蕎麦は私の人生そのもの。そして蕎麦を通じて私は”自分の店を持つ”ことはもちろん”自分のビルを持つ”という夢まで叶ったのです。

それ以上の夢はありません。美味しいものを作り続け、お客様にご提供できれば、それ以上の喜びは無いですね。


バングラデシュ出身のお弟子さんと共に。チョウドリさんの信頼を得、今では厨房を任されている。

チョウドリさんにとって、日本って何ですか?
蕎麦と同じように、私の人生そのものです。自分の才能が開花したのは日本だし、私を社会人として、また職人として育ててくれたのも日本です。家族にも恵まれ、私はこの国で幸せに過ごしてきました。
でも正直に言います。今の日本はあまり好きではありません。

私が大事にしているのは3つあります。食べ物、着るもの、寝る場所です。これらと健康さえあれば十分だと思います。贅沢は必要ありません。でも一方で、今の日本の人たちは時間に追われ、いかにお金を稼ぐかばかり考えているのではないでしょうか。

これから日本に来たい人がいるとしても、私はその人たちに言うことはありません。経済的なことを考えて結婚しない人が増え、自分たちの魅力を海外に発信していろんな国々から人々を受け入れることもせず、結果としてどんどん人口が減っていく。そのような国にわざわざ来て、苦労する必要は無いと思います。だから私は敢えてその人たちを応援することは無いでしょう。

私の2人の娘の将来を考えれば考えるほど、日本に魅力を感じられなくなる。あの子たちも、もしかしたら将来は日本を出て行くかもしれませんが、それでも良い。彼女たちには自分の人生を楽しんでほしいと思います。

石臼そば

神奈川県逗子市山の根1-1-31(地図
※最寄駅:JR「逗子」西口より徒歩1分

営業時間:11時~22時
定休日:月曜

チョウドリさん関連リンク
石臼そば:sobatohalal.jimdofree.com/ ※ハラールレストランは閉店
*Instagram:instagram.com/ishiususoba_bd/

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