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【インタビュー:多文化をチカラに㉜】劉英さん(プロダンサー/ダンスコーチ/ダンススクール校長/ダンスフェスティバル実行委員長)2024.03.20 | 


遠回りをして確かめた社交ダンスへの揺るぎない愛。私は社交ダンスで日中友好と世界平和に貢献します。

皆さんは”社交ダンス”に対してどのようなイメージをお持ちでしょうか。紳士と淑女が手と手をつなぎ、体を合わせて軽やかにステップを踏む姿をご想像されるかもしれません。1990年代には映画『Shall We ダンス?』の影響から若年層にも広がり、2000年代にはバラエティ番組で芸能人たちが華麗に踊る姿に多くの人々が釘付けになりました。

そんな日本での社交ダンスの在り方に、一石を投じようと奮闘する中国人女性がいます。母国の社交ダンス界でトップを走ってきた現役ダンサーの劉英さんです。劉さんは、日本で比較的高齢層に親しまれている社交ダンスを、子どもたちに普及させると共に、手と手を取り合うこの競技の特性を生かし、日本人と中国人、さらには世界中の人々とをつなげる試みに取り組んでいます。

My Eyes Tokyoの徳橋編集長が実行委員長を務めた「多文化おもてなしフェスティバル2023」で、子どもから大人まで、国籍を超えて共に踊る姿を人々の脳裏に焼き付けた劉さんの、社交ダンスに賭ける情熱や、ダンスを通じた国際交流というアイデアの源を探りました。

多文化おもてなしフェスティバル2023に参加したジュニアダンサーたちと(右端が劉さん)

”師匠”を追い越した中国
これを読む皆さんには、もしかしたら”中国”と”社交ダンス”が結びつかない人もいらっしゃるかもしれません。確かに日本は中国より約40年早く社交ダンスを始め、中国は日本を”師”と仰いでいました。しかし中国は競技人口が多く、しかも幼少期から社交ダンスを教えます。お金持ちのスポンサーが社交ダンスに資金を投入し、社交ダンスのテレビ番組まで作り、中国全土にダンスの専門学校を設立したり、大学で授業を行うなど普及に務めた結果、いつの間にか日本のレベルを抜いてしまったというのが現状です。

日本で社交ダンスの裾野が広がらないのは、この国では社交ダンスが”薄暗い空間で大人の男女が密着して踊る”というイメージが未だにあるからかもしれません。私はそのイメージを変えるため、屋外で踊るダンスフェスティバルを開いています。しかも年齢も国籍も関係なく、誰もが参加できるというもの。それが、私が実行委員長を務める「わーるどダンスフェスティバル」というイベントです。私を含む3人で2018年に立ち上げました。

今では”人生を賭けている”と言えるほど、社交ダンス漬けの毎日です。

じっとしていられない少女
私は幼い頃からいろんなスポーツを経験しました。それは父の教えです。女の子がキレイになるためには運動をした方が良いという考えを持っていた父は、当時3~4歳の私に様々なスポーツや姿勢の矯正をさせました。そのおかげか、私は走ったり動いたりすることが大好きになりました。一方で父から二胡やバイオリンの演奏を勧められても、ジッと座っていることが耐えられなくて、すぐにあきらめましたね(笑)

趣味の一環としてスポーツを始め、徐々にプロに近づいていく日本と違い、中国ではコーチ陣が各学校に行って見込みのある子をスカウトし、プロとして厳しく指導します。その代わり、相手が子どもであってもお給料が支払われるのです。小さい頃から運動していた私は、体つきや手足の長さなどが向いていると思われたのでしょう。通っていた幼稚園に来たコーチからスカウトされ、5歳で器械体操を開始。厳しい指導を受け、私の出身地の代表になりました。道端で側転やバック転を20回くらいやってのける6歳の私を、近所の人たちが動物を見るような目で見ていましたね(笑)そして9歳の頃には中国のナショナルチームのメンバーに選ばれるまでに。しかし勉強にも励むよう私に期待した家族の反対に遭い、器械体操そのものを辞めることにしました。

しかし、そのおかげで学業で全国トップクラスの高校に入学。抜群の運動神経が目に止まり学校の先生から声をかけられました。高跳びや走り幅跳び、ハードルなどいろいろな競技に取り組み、中でも高跳びは160cmを飛んで学校の当時の新記録を出しました。一方で中国で有名だった日本人歌手・山口百恵に私が似ていたことから”学校の花”と呼ばれました(笑)またダンスも上手だったため、先生から頼まれてフォークダンスを同級生たちに教えていました。

高校卒業後、ダンスを中心に指導する体育大学に進学。バレエなど各種ダンスやエアロビクス、新体操、器械体操など、芸術とスポーツが融合した運動に取り組みました。またダンスチームを組んだり、様々な大会に出場して好成績を収めました。一方でファッションモデルや振付師、ダンサーとしても活躍し、テレビにも出演しました。

写真提供:劉英さん

これが私の生きる道
そんな私に適性を見たのでしょう。当時中国の社交ダンス協会の会長だった、器械体操の元世界チャンピオンが私に「社交ダンスをやってみたら?」と。時代は1990年代。中国では社交ダンスをする人たちがようやく出てきた頃で、すでに盛んだった日本の背中を追いかけていました。その人は中国での社交ダンスの普及に努めていました。

その頃、偶然にも私は、ある社交ダンスの大会にエアロビクスのデモンストレーターとして招待されました。その大会で初めて社交ダンスを目の当たりにし、最初は自分がやっていたエアロビクスやダンスのレッスンに取り入れることを考えた程度でした。でも社交ダンスを知れば知るほど、その魅力に憑りつかれるようになったのです。

社交ダンスは他の多くのスポーツとは逆で、足を床から離してはいけません。そのような縛りがありながら、スタンダード(※男性がタキシード、女性がロングドレスを着用し踊る)やラテンなど、持つ雰囲気が異なる種目が10以上ある。父方がロシアの貴族という家系で育ち、知らないうちにそのルーツに影響を受けていたためか、大学時代はグループの輪の中に入れないもどかしさを感じ、”自尊心は高いけど自分に自信が無かった”私が社交ダンスに出会った。幸せも悲しみも喜びも表現する、そんな社交ダンス、中でもスタンダードの衣装に、私は上品さを感じたのです。

子どもの頃から器械体操を始めバレエやエアロビクス、新体操、陸上、様々なダンスなどに触れ、ファッションモデルも務めてきました。でも社交ダンスに出会ってから、それらを全て辞めました。技術を競うだけでなく、芸術の要素がより強い社交ダンスなら、私の動きたい欲求と、品を大事にしたいという欲求が全て満たされる – そのような競技に「ようやく出会えた!」と確信しました。

そして私は北京で指導する、中国での社交ダンスの第一人者に師事。開始わずか1年後、私は中国全土の社交ダンス大会で優勝するまでになり、その後もイギリス・ブラックプールで毎年開催される世界的に有名なダンスフェスティバルに中国代表として出場したり、ダンスが公開競技(※試験的に行い、正式種目昇格を判断する競技)として行われた第13回アジア大会に同じく中国代表として参加したりしました。”天才”とまで言われた私の急成長ぶりは、幼少の頃から様々な競技を経験してきた、その賜物だったのです。

大学を首席で卒業し、その後他の大学でダンス専攻の講師として勤務。同時にダンスコーチとして全国を指導して周るようになりました。”中国社交ダンス界の新星”と呼ばれる一方、両親の願いでもある大学教授になる夢を追いかけました。

日本へ”逃げる”
盛り上がる中国の社交ダンス界を背負って立つカリスマとして将来を託された私は、社交ダンスのテレビ番組にも多く出演し、名が知られるようになりました。

一方、同じくスポーツの道に進み、新体操の中国代表として活躍した私の妹が日本へ。香川県で自分の新体操教室「エンジェルRGカガワ日中」を開校し、地元の子どもたちを指導していました。故郷から遠く離れた妹を心配した家族は、私に「妹の面倒を見るために日本に行って」と言われました。

正直なところ、私はそれまで命を懸けて社交ダンスに取り組んできたあまり、気力が限界に達していました。その上、自分がダンスを続けるために家族に大変な負担をかけていた。だから両親から「あなたも家族のために力を尽くしなさい」と諭されました。

日本に気持ちが傾き、それを周りに打ち明けると「なぜ日本に行くの?」と。私の社交ダンスの先生は、私の日本行きを阻止するために、父に一晩中説得を試みました。しかも当時の私は、社交ダンスをテーマにした映画の主役にまで抜擢されていたのです。

しかし一つの目標を達成したら、次の目標を設定するもの。私が家族からミッションを与えられたのは、ちょうどその時期と重なっていた。私は、あらゆる声を振り切って異国に行くことを決意しました。

空港でいつまでもお辞儀されたり、親切心でいただいた厚さ2センチのマグロの刺身を食べられずに口から出してしまったり・・・その後の劉英さんの日本での奮闘ぶりや、劉英さんが感じた中国と日本との文化の違いについて『敬天愛人と仲間たち』という本に詳しく記されています。ご興味ある方は上の画像をクリックしてください。
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本当にやりたいことは何?
私もかつて新体操に取り組み、審査員も務めていました。だから妹のそばに寄り添うだけでなく、コーチとして彼女のスクールのお手伝いもしました。でも思いました。「これは私が本当にやりたいことではない」と。ダンス音楽を聞いたら泣いてしまう、そんな自分の素直な気持ちに気づいたのです。

一方で大学教授を目指していた私は、公演を世界中で行い、それに生徒も連れて行くという現役ダンサーの教授に惹かれ、東京のお茶の水女子大学大学院の研修生に。海外からの生徒をほとんど受け入れない教授でしたが、私のことを受け入れてくださいました。しかし結局、大学院での研究を断念せざるを得なくなりました。教授から離れることになってしまったことを、今でも申し訳なく思っています。

これらの経験を経て、改めて気づきました。「私が情熱を注ぎたいのは、社交ダンスなのだ」と。大学教授という、誰かが私に託した夢ではなく、本当に自分自身が没頭できることに、私はようやく気がついたのです。

社交ダンスを子どもたちへ
私は日本で社交ダンスを再び始めました。やがて池袋で自分のダンススクールを開くように。しかし私にとっては、まだ不十分でした。

日本では従来、社交ダンスは比較的年齢層の高い人のスポーツだと考えられていました。しかし中国では、子どものころから社交ダンスを始める人が多い。それは中国各地に社交ダンスのサークルや専門学校が多数あるから。しかも本格的な専門学校になると、ダンスを中心に数百人から数千人もの子どもたちを指導し、大学と同様の卒業証書も授与します。私はそのような専門学校を日本で作りたいと、ここに来た頃から思っていました。しかし日本では社交ダンスが風営法(風俗営業適正化法)の対象になっていたため、かつてジュニアの社交ダンスへの参加は認められませんでした。

大勢のジュニアが社交ダンスに参加できれば、日本からも世界レベルを狙えるダンサーが生まれる。その環境を作るためには、社交ダンスが健全なスポーツでもあるをアピールする必要がありました。私は、屋外で、青空の下で社交ダンスを踊ることを思いつきました。これなら子どもたちからお年寄りまで、健常者でも障がい者でも、いろんな人たちが自由に参加できます。ワックスをかけたツルツルの床の上でなくても、ザラザラな地面の上でも踊れる、気軽に楽しめるスポーツであることも、日本の人たちにお見せしたいと考えたのです。

世界中の人たちと踊りたい
私が長年住む池袋では、ジャズやフラダンスのフェスティバル、よさこいなどたくさんの屋外イベントが行われます。その環境に刺激されて、私も池袋で屋外社交ダンスフェスティバルを開くことを思いつきました。しかも世界中で親しまれている社交ダンスなら、それを通じて国際交流もできる。このようなアイデアを、豊島区日中友好協会会長や、私のリーダーとして10年以上ペアを組んできた後藤史雄先生に伝え、賛同してくれた彼らと”わーるどダンスフェスティバル実行委員会”を立ち上げ、2018年11月に第1回「わーるどダンスフェスティバル in TOSHIMA」を開催しました。

今ではフェスティバルの実行委員は約30人にまで増えました。その中にはアメリカやロシア、ウクライナの出身の人たちもいましたが、多くは日本人や、私と同じ中国出身の人たち。今後はもっと人数や国籍を増やしていきたいですね。私はもともと誰とでも仲良くなれる人で、険悪なムードにある人たち同士をまとめることも自然とでき、メンバー同士が仲良くなったグループで楽しいことをやるのが、私は好きなのです。

私はわーるどダンスフェスティバルを、世界中から日本に来る人たちの”家”のようにしたいと思っています。あることをしたいのに、どこに行けば良いか分からないという人たちが、どこに行けば良いか気軽に聞ける場所です。

実際、日本や中国以外にも様々な国々の人たちから参加希望のお声をいただいています。あるイギリス人のダンス愛好者は、社交ダンス未経験ではありましたが、フェスティバルを通じて社交ダンスが好きになり「ぜひイベントに参加したい」とおっしゃいました。ダンスが好きな人たちや国際交流をしたい人たち、世界平和を願う人たちにご参加いただけるイベントを作りたいと思います。またダンスだけでなく、歌やアートとのコラボレーションにも挑戦したいですね。

共に「わーるどダンスフェスティバル」を立ち上げた後藤史雄さんと繰り広げる華麗なステージ
多文化おもてなしフェスティバル2023

社交ダンスで世界に平和を
今までフェスティバルに参加してくださった先生方の中に、今争っている国々の出身者がいました。しかし開戦後、お2人が同じ舞台に立つことを避けられました。今年(2024年)こそは、ぜひこのお2人に同じ舞台に立っていただけるよう働きかけたいと考えています。

日本と中国の関係も似ていますよね。両国の政府の関係は良くなったり悪くなったりしますが、一般の人たち同士の関係は変わっていないし、これからも変わってほしくありません。私は戦争が大嫌いです。大きな目標かもしれないし、私たちでは役に立てないかもしれないけど、私はダンスを通じて平和に少しでも貢献したい。

ダンスは技術が大事なのではありません。手を繋いで動き、音楽に合わせて皆でステップを踏む。それで十分。なぜならダンスは、それを通じて人と人とが仲良くなるのが目的だからです。「ダンスができない」とおっしゃる人たちにこそ、わーるどダンスフェスティバルに参加していただきたい。そして世界中の人たちが困ったり、悩んだりしたときに気軽に集まれる”家”を、皆と一緒に作っていけたらと思っています。

写真提供:劉英さん

劉さんにとって、日本って何ですか?
何でもあり、自由で包容力のある上品な場所です。
派手な恰好をしていても、人はそこまで注意を払わない。一方で素晴らしいものには惜しみない拍手を送る。演技者として、それがすごく嬉しいのです。日本の人たちに包容力を感じます。世界規模で見ても、日本の人たちはとても優しいですね。

まとめて言えば、日本は”しい・しい・しい”。”優しい””美しい””素晴らしい”です♡

4月29日(祝)は池袋ウェストゲートパークへGO!詳しくはポスターをクリック!

劉英さん関連リンク
わーるどダンスフェスティバル2024:facebook.com/wdf.tunagou.sekaitowatashi
英櫻(えいえい)国際DANCE SCHOOL:yingyingdance.wixsite.com/dance

※My Eyes Tokyoの協力のもと、日本で活躍する外国にルーツを持つ方々へのインタビューを紹介していきます。
https://www.myeyestokyo.jp/62255

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