HOME >  【インタビュー:多文化をチカラに㉝】松 優莉さん(社会起業家/小説家)

【インタビュー:多文化をチカラに㉝】松 優莉さん(社会起業家/小説家)2024.03.28 | 


私の命を救ってくれた人たちから受けた恩を、私はシングルマザーに送っています。

現在の日本は”ひとり親”の家庭が増えていると言います。特に両親が離婚した後、母親が親権者となり子どもを引き取るケースが多いため、必然的に父子家庭よりも母子家庭が多くなります。また離婚以外にも、夫との死別や、未婚のまま母親になるケースがあることも、母子家庭の要因になります。そして母子家庭は父子家庭よりも平均収入が低く、母子家庭が貧困に直面する傾向にあります。

子どもを一人で育てる母親、いわゆる”シングルマザー”。彼女たちの多くは貧しい中で子育てに追われ、家庭外での仕事に従事する時間が限られ低収入、または収入ゼロの状態に置かれています。そんなシングルマザーたちを救うため、外国ルーツを持つ一人の女性が立ち上がりました。中国出身の松優莉さんです。

日本のシングルマザーの姿に胸を痛めた松さんは、彼女が日本で築き上げたネットワークを活用し、シングルマザーに安定した仕事を提供する仕組みを作っています。それに至る背景や、松さんの活動の原動力はいったいどこから来るのか?そのヒントを探しに、ハルビン、北京、京都、大阪、東京、韓国を巡る松さんの壮大な足跡を、皆さんと一緒に辿りたいと思います。

世界を駆け巡るシングルマザー
私は現在、女性支援を中心に活動を行っています。シングルマザーの自立を支援する女性経営者が集まる”世界女性企業連盟”、それに所属する女性が経営する会社および女性向け商品を製造している会社の商品を車に載せ、世界中のシングルマザーたちが各国の首都を走りながら販売する”動くアンテナショップ”を運営する”39(サンキュー)mama”です。連盟は2016年、39mamaは2019年に立ち上げました。

後者の39mamaについては、日本だけでなく世界中のシングルマザーを移動販売員として仕事を提供することを目標にしています。シングルマザーの中には、起業家や経営者として頑張っている人たちもいます。しかしほとんどは、社会の片隅で苦しんでいるにもかかわらず声を上げられず、常に何かに怯えているのが実状。「私はシングルマザーです」とはなかなか言えないものです。そんな彼女たちが自信を持って働ける環境を提供するためにはどうすれば良いか考え「車を仕事場にすれば、その場で販売しながら、携帯を使ったオンライン販売もできる。その車を使って子どもの送り迎えもできる」という結論に至りました。今の時代は多くのママたちが車を運転できるし、数年後には自動運転が実現し、運転ができない人たちも自分で車で移動できるようになると私は予測しています。またこのような取り組みを、日本人女性が中心となって行っていることを世界にアピールすることで、彼女たちの国際的地位も向上します。

私自身はシングルマザーではないし、子どももいません。そんな私がなぜシングルマザー支援に命を燃やしているのか – 私の来日のころからさかのぼってお伝えしたく思います。

日本未体験の日本語教師
私が日本に来たのは今から34年前、1990年です。ただし日本とのつながりは私の少女時代に始まりました。私は黒竜江省ハルビンの出身ですが、現地に住んでいた中国残留日本人孤児の人たちがご親戚に会いに日本を訪れ、その後キレイな洋服を着、バイクや車をお土産にしてハルビンに戻ってくる姿を目にしました。それらはご親戚からプレゼントされたのでしょう。私は日本の豊かさを感じました。当時私たちは抗日戦争などを扱った映画の影響で”日本は悪い国”という印象を刷り込まれていましたが、それが変わった瞬間でした。

私は日本語を学んでみたい欲求にかられました。しかし母は、文章を書くのがもともと好きだった私に”世界中をカメラを持って駆け巡るジャーナリスト”になるよう教え「そのためには英語力が必須だ」と。また昔の中国で最も尊敬されていたのは先生だったことから、母は私に先生になるようにも勧めました。

私は先生になる道を選び、北京師範大学に進学。私は大学で日本人の教授から日本語を学びました。英語熱の高い母からの反対に遭ったのではないかと、皆さんは思われるかもしれません。しかし実は、母が日本語を教えてくれたのです。かつて満州にあった日本人学校に通っていた母は、私が高校生の頃、図書館で古い日本語の教科書を借りては、私に50音から教えてくれました。だんだん日本語を学ぶのが楽しくなり、英語学習を1年で止め、日本語を教える高校に転校したほどです。

大学で日本語を専門的に学び、中国で大人気だった山口百恵さんが出演していたドラマや歌を日本語で理解できるようになった喜びから、私はさらに日本語学習にのめり込みました。大学を卒業後、私は中国の少数民族のエリートを養成する中央民族大学へ。先生として勤務し、学生たちに日本語を教えました。当時の私の目標は教授になること。そのためには自分の目で日本を見、日本人に会い、日本語の環境に身を置く必要がある – 私は、バブル経済真っ盛りの日本へと飛び立ちました。

夢の新婚生活
私を載せた飛行機は大阪へ。大阪(伊丹)空港に降り立った私がまず感じたのは、日本の空の青さでした。大都会であるにもかかわらず空気が澄んでいたことに感動しながら、私は迎えに来てくれた友人の車に乗り、一路京都へ。その道中で見た木々や山々、家々がくすんでおらず色とりどりで鮮やかだったことを、今でもはっきり覚えています。

こうして私の日本での生活が始まりました。中国で先生だった私が就いた仕事は、マクドナルドでのアルバイト。でもラッキーなことに、台湾に姉妹団体を持ち、中国語サークルのあるロータリークラブで、週1回ですが中国語を教える機会に恵まれました。その後サークルの人からのご紹介で、中国の大連に進出していた大阪のビルメンテナンスの会社に就職。しかし女性にお茶くみなどの雑用をさせる日本企業の風習が肌に合わず、先生への復帰という目標を見失いそうになっていたこともあり、1年半後に退社しました。

その後日本人男性と結婚。先生になることと同じくらい夢見ていた”夫の靴をピカピカに磨いてハンカチにもアイロンをかけ、会社に送り出し、一人になった私は家事を終えた後に小説を書く”という生活が、ついに実現する – 母は私にジャーナリストになることを勧めましたが、作中ならいくら嘘をついても許され(笑)どんな人とも恋愛を楽しむことが、小説家ならできますよね。実際に私の大学に留学に来ていたカッコいい日本人男性に私は片思いをしましたが、当時アマチュアとして書いていた小説の中で両想いにさせたほど(笑)時は過ぎ、私は別の男性と結婚しましたが(笑)”主婦兼小説家”への期待に胸躍らせました。

美顔器を手に大陸へ
結婚の半年後、夫は突然会社を辞めて独立。事業内容は、私と一緒になったことから”日中貿易”と決めていたものの、中国で販売する商品が定まっていない状況でした。

当時私は大阪市内のエステサロンでアルバイトをしていました。そのオーナーが私に美顔器を見せてくれたのです。「これは中国で売れる!」と私は閃き、その勢いで夫の会社の取引先を私が北京に設立。その読み通り、日本製の美顔器は現地で飛ぶように売れました。当時、1999年頃は日本の美顔器が中国では知られていなかったので、私が市場を開拓したと言っても良いでしょうね。でもそれは、夫の事業を支えるためではなく、赤ちゃんが欲しかったから。安月給で耐え忍んでいたサラリーマンが、会社を辞めて独立したら、収入は低いどころかゼロ。子どもを産み育てるために、私たちは人一倍お金を必要としたのです。

中国を拠点にして、時々日本に帰る – そんな生活が4年半続いた後、私は日本に腰を落ち着けたいと思うように。そんな私に夫は一言「仕事だからしょうがないだろう」。でもそう言う彼は私が中国にいた間、頑張って事業に取り組んでいるようには見えなかった。「うまくいかなくなったら、故郷に帰ればいい」とすら言っていた。もしそうなら、私が中国で頑張ってきたのは一体何のためだったのか – 夫は優しい人でした。だけど「この人とは終わりだ」と悟りました。私たちの結婚生活は9年で幕を閉じました。

誰にも知られずひっそりと
離婚後、北京に設立した会社を整理した私は、長らく憧れていた早稲田大学がある東京へ、さらなるチャンスを求めてやって来ました。私が日本に帰化したのも、ちょうどその頃。四季折々で風光明媚なこの国に骨を埋めたいと思うようになっていたのです。これから大都会・東京で様々な試練に遭うことも知らずに・・・

それまで関西で生活していた私に、東京での知り合いはわずか2人。42歳の女の東京生活は、華屋与兵衛という和食レストランチェーンでのアルバイトで始まりました。

「大学を卒業後、北京の大学で先生をしていた自分が、日本に来てもう何年も経つのに、この有様・・・」。本を出版しなければ自分の存在価値はゼロであり、誰にも知られることなく死んでゆくのだ – それほどまでに思い詰めていました。

そんな私に、自分のルーツを活かす道が開かれたのです。

揺れるアイデンティティ
それはある語学スクールでの韓国語指導の仕事。最初そのスクールの”中国語教師募集”のお知らせに飛びついた私は、履歴書に”韓国語も堪能”と書いて提出。ちょうど世が”ヨン様ブーム”に湧いていたため、スクールから「韓国語を教えてもらえませんか」とお願いされました。韓国語は日本語と文法が同じだから教えやすい – 私は二つ返事でご要望を受け入れました。

実は私の出自は、中国の少数民族である”朝鮮族”。そのため私は、朝鮮語も中国語もネイティブとして読み書き会話ができるのです。

私は、それまで英会話が中心だったそのスクールで第1号の韓国語教師に。市販のテキストの中から私が良いものを選別するところから始めました。その後銀座や山手線主要駅そばにある教室を教えて廻り、やがて経済的に余裕が生まれるように。一日の指導を終えるたび、私はカフェで執筆活動に取り組みました。

中国ではマイノリティの朝鮮族である一方、祖父が生まれた北朝鮮にも拠り所を感じられない、日本に来て帰化もしたけれど、日本で生まれ育った日本人のようにはなれない。離婚して今は独り、東京に家族も友人も先輩も後輩もいない、人の海の中にぽつんと1人置いていかれた私には、女性にとってとても大事な”ベッド”を置く場所すら無い・・・そのようなやるせなさや寂しさ、そして「自分の存在を証明させたい」という思いをエネルギーに換えて約1年半書き続けました。

こうして2007年11月、プロとしての第1作目『私のベッド どこに置く』を出版。私の名前の一部を取った”松月”というペンネームで、ついに長年の夢だった小説家としてデビューしました。

画像提供:松優莉さん

生保レディに転身 そして”崩壊”
小説出版の前、私はその原稿を、北京にいる朝鮮族の友人に見せました。「これは素晴らしい。日中韓にまたがる壮大なドラマを作ろうよ!」。ドラマ制作の実績がその人にあったので、私もその人を信じました。しかしその人の会社が自転車操業だったため、ドラマ制作のために私もいくらか投資をするようお願いされました。それに加えて小説の出版を自費で行うことにしたため、カードローンでお金を借りて出版費用を賄いました。

語学スクールでの先生業だけでは生活できない – 途方に暮れた私は、たまたま参加した中国関係のイベントである人に出会います。その人はすでに私の小説を読んでくださっており、それへの称賛のお言葉に加えて、私に仕事をご紹介してくださったのです。「松さんは語学スクールの先生だったから、生徒さんも多いでしょう?だから毎月最低でも35万円は稼げますよ」。月30万円の収入を確保したかった私は、その誘いに乗り、外資系生命保険会社のセールスパーソンに転身しました。

しかしいざ私がかつての自分の生徒さんに会っても、保険のことを口にすることに抵抗を感じました。入社半年後には退社を考えるようになりましたが、会社から「松さんなら大丈夫、きっと契約を取れますから!」と励まされ、その気になって継続。しかし入社して8ヶ月が経ったある日、私は”崩壊”したのです。

「何という人生!」
その保険会社は小学校とも契約していたため、校舎内に入らせていただくことができました。しかしある先生から「もう保険の営業は勘弁してください」と・・・

「中国では大学で教壇に立っていたのに・・・何という人生だ!」

会社に出社しても訳もなく泣き出し、勤務時間中であるにもかかわらず外に飛び出すように。ある日、友達とランチをしていた時、泣き出した私を見て、友達は「あなたはうつ病にかかったかもしれないね」と。実際に心療内科に診ていただいたところ、友達の言う通りでした。

やがて私の月給は基本給の7万円だけになり、そこから営業に必要な交通費まで引かれ、家賃すら支払えない状況に。入社1年半後に生命保険会社を退社し、その後は治療を続けながら、当時持っていたマンションの自宅を売却するなどして、生活資金を捻出しました。

シングルマザーに愛の手を
私が病に倒れる前、私のかつての韓国語クラスの生徒さんだった4人の主婦に、自宅のリビングで教えていました。そして私が会社を辞め、収入源が断たれた後、彼女たちは私を助けるために、その後も韓国語を学びに来てくれたのです。

私は思いました。「もしこの人たちがいなかったら、私は本当にビルの上から飛び降りていたかもしれない」と。彼女たちに心から感謝すると共に、複数の人たちが手を取り合って困っている人たちを助けることの必要性を感じました。

ちょうどその頃、私はテレビでシングルマザーの実態を見、また日本人男性と離婚してシングルマザーになってしまった中国人女性にも出会います。独り身でも困窮した生活を余儀なくされた私にとって、その辛さは想像を絶するもの。私には子どもがいなかったものの、私の子どものような小説を世に出すために、私は大金を費やしてきた。そんな自分を、生活費や養育費の確保に苦しみ、そのために本意ではない仕事までせざるを得ないシングルマザーたちの姿に重ねました。私は4人の主婦からいただいた恩を、シングルマザーたちに送ろうと考えたのです。

一方で世の中を見渡すと、女性経営者がたくさんいます。彼女たちの商品はクオリティが高いにもかかわらず、販路が彼女たちのコミュニティに限定されていたり、広くても日本国内でしか流通されていなかった。私はもどかしさを感じずにいられませんでした。私の故郷である中国や、私のルーツのそばにある韓国に流通させ、やがて世界中に販路を広げることができるのではないか。そしてその販路拡大の担い手をシングルマザーにすることで、彼女たちの自立を促せるのではないか・・・

こうして2016年、世界女性企業連盟が立ち上がりました。収入も資金も無い中、うつ病と向き合いながら、様々な業界、さらには政財界に、私の構想を伝えていきました。その後、平昌冬季五輪を記念し行われた韓日中3ヵ国文化経済交流会で着物ショーを開催。2019年には株式会社39mamaを発足させ、シングルマザーへの配送業務紹介事業を試みました。

無我夢中で走り続けるうちにコロナ禍が明け、私の病も完治。いよいよ人生を賭けた真剣勝負の時、到来です。

妄想を計画に 計画を実行へ
中国や韓国には、日本の商品はかなり流通しています。そのため私たちは、最初に申し上げた”走るアンテナショップ”を東南アジアで展開することを考えています。そのために自動車メーカーさんへのご協力を仰ぎ、2~3年後には東南アジア各地に”39mama”の車を走らせる – 私は小説家なので妄想は得意ですが(笑)これは妄想ではなく、実現の方向へと動いています。

シングルマザーとその支援者が一同に会する第1回目のイベントを2024年3月30日(土)都内で開催。自宅で可能なデータ入力業務など、シングルマザー支援に向けた新たな施策やビジョンが発表される予定。

私は日本の女性経営者や日本のシングルマザーを支援することはもちろん、アジア各国の女性団体と連携し、その国々のシングルマザーへも仕事を提供したいと考えています。実際にアジア5ヵ国出身の顧問が世界女性企業連盟に在籍しているため、彼らと共にその仕組みを作っていきたいと思います。

松さんにとって、日本って何ですか?
一番愛していたい場所です。
血のつながりよりも人との関係を、人は愛していたいものかもしれません。私にとって日本は、血のつながりはありませんが、たくさんの人たちと喜怒哀楽を分かち合ってきた場所。”第2の故郷”という言葉では、もはや表現できません。

私はこの日本から世界中の女性を支えながら、もう一つのライフワークである執筆も続けていきたいと思います。

松さん関連リンク
世界女性企業連盟:wwef.or.jp/

※My Eyes Tokyoの協力のもと、日本で活躍する外国にルーツを持つ方々へのインタビューを紹介していきます。
https://www.myeyestokyo.jp/62494

前のページへは、ブラウザの戻るボタンでお戻りください。
このページのトップへ