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【インタビュー:多文化をチカラに㉟】松本 利々子さん(バレエダンサー/振付師/指導者)2024.04.25 |
恩師の厳しい指導で成長した私は、指導者としてウクライナの子たちに恩送り。みんなギャン泣きしました(笑)
今もなお、世界各地で戦争や紛争、分断が続いています。日々の報道でそれらの動向に接しつつも、どこか遠い場所で起きていることのように受け止めてしまうものかもしれません。しかし私たちはこの人に出会うことで、厳しい状況を身近なものに感じられるようになりました。ご自身が戦火を逃れて日本に帰国した避難民でありながら、その後同じくウクライナを脱出し日本に避難してきた人たちへの日々の生活のケアや各種手続きに、ウクライナ語・ロシア語通訳として従事してきた松本利々子さんです。
松本さんはウクライナのバレエ界で活躍したダンサー。しかしよく聞くと、彼女は後進への指導も行っていました。ウクライナという世界的にもバレエが盛んな国で、ダンサーを夢見る少年少女たちに日本人が指導するというのは、譬えるならドイツやブラジルといったサッカー強豪国で日本人が指導しプロを育てるのと同じこと。その驚異のキャリアに徳橋は一気に興味を深め、松本さんにインタビューをお願いしました。その後実際にお会いし、”埼玉発キーウ行き”のバレエに捧げた青春時代、そして開戦時の壮絶な脱出劇に触れることになったのです。
帰りたい、帰れない
開戦後に首都キーウからウクライナ西部の国境付近まで避難し、2022年3月17日まで滞在。そして3月20日にハンガリー経由で日本に戻ってきました。今は、日本に避難しに来ていると言えるのかな・・・確かに日本に帰国した当初は、2~3ヶ月程度”避難”して、再びウクライナに戻るつもりでいました。ただその後、縁あって日本に避難してきたウクライナ人のためのウクライナ語およびロシア語通訳業務に約2年間従事しました。
今ももちろんウクライナに帰りたいという気持ちがあるし、いつか帰るつもり。でもきっと、私が住んでいた頃とは全く違う国になっていると思います。例えば言語ひとつ取ってみても、私は今ではロシア語とウクライナ語の両方を話せますが、昔私がロシア語しか話せなかった頃、職場の同僚たちが私にロシア語で話してくれたものです。でもこれからウクライナに戻り、もし私がロシア語を話したら、きっと嫌な顔をされるでしょうね。だから現地に戻っても、そこで生活し続けることができるかどうか、正直分からない。それが少し寂しいですね。
「日本を出ればいいじゃないか」
私は3歳の頃から地元の埼玉県でクラシックバレエを習っていました。始めたのは2つ上の姉の影響です。姉は、まだ私が生まれる前から母とバレエ公演を見に行き、自分もやりたくなって、私と同じ3歳で始めました。バレエに取り組む姉を見て、私もやりたくなったのだと思います。
私は姉がレッスンを受けていた地元のバレエ教室に通い始めました。その教室には本部と支部があり、私たちは支部に通う一方、スキルを見出されて週2回ほど本部にも行きました。
やがて母から、バレエ界の現実を聞くようになります。日本国内のバレエ団に入って活動しても、年収は10万円未満。公演チケットは全部自分で売らなくてはいけないし、バレエ団の入団費用や月会費も払わなければならない。その上日々の練習も必須。つまりクラシックバレエで生活を成り立たせるのは無理だということです。当時姉は小5か小6で、部活動が必須になる中学校に進む前にバレエを辞めることを、母に伝えていました。
しかし姉が最後の舞台だと決めていた発表会に偶然来ていたロシア人バレエダンサー、アレクサンドル・ミシューチンが、姉がバレエダンサーとして理想的な体形をしていることから、彼女の可能性を見出したのです。彼は言いました。「日本でバレエで生活できないのなら、日本を出ればいいじゃないか」。
海外に憧れ ウクライナを目指す
すぐに答えを出せず悩む姉は、彼に伝えました。「ちなみに、妹もバレエをやっていますよ」。
私を見たミシューチンは言いました。「はっきり言えば、君はバレエ向きの体形ではない。でも舞台映えする表現力を持っている。お姉さんにそれを分けてあげてほしい」。そんな理由で、小4の私は姉と一緒にミシューチンからのレッスンを受けることに。姉は中学校進学後、幽霊部員として音楽部に所属しながら計3年、私は小5から計5年、彼の旧ソ連式の厳格な指導を、ほぼ毎日休みなく、学業と並行して受ける過酷な日々を送りました。
やがて彼とイタリアやルーマニアでセミナーを受けたり、アメリカでコンクールに出場したりするうちに、私たち姉妹は海外に興味を持つように。そして姉が中3になった頃、改めてミシューチンからバレエ留学についての提案がなされ、彼の故郷であるロシアもさることながら、旧ソ連の三大バレエ団のひとつ”キエフ・バレエ”があり、彼の知り合いの指導者たちがいるウクライナも勧められました。そしてその時ミシューチンから、ロシアのバレエ界がアジア人に対して門戸を閉ざしている現実を聞きます。彼を経由して現地のバレエ学校から声がかかっていたことも手伝い、姉はウクライナ行きを選択。2013年、15歳の姉はウクライナに飛びましたが、それにミシューチンと母、そして私もついていきました(笑)初めて触れる”緑の都”キーウの空気に「私もここに留学に来たい!」と思ったのです。
日本に戻った私は、中2の頃にロシア語を習い始めるように。地元にはロシア語学校が無かったので、埼玉から銀座まで週2回、放課後に通学。2年間本気で学び、ロシア語検定3級(日常会話程度)を取得しました。この時の勉強が私のロシア語力の基礎を作りましたね。余談ですが、情勢的にウクライナ語を学ばざるを得ない状況になった時にも、その基礎が大いに役立ちました。
アジアンビューティー 世界で活躍
2015年3月、中学を卒業。その後バレエとロシア語の追い込みレッスンを受け、同年9月ついにウクライナへ。2013年から14年にかけて現地のバレエ学校に留学していた姉は、エジプトのバレエ団から入団のオファーがかかったため、すでにウクライナを離れていました。姉が住んでいた当時から、ウクライナ東部では不穏な動きがあったものの、首都キーウでは人々が普通に生活。彼らに危機感はほとんど見られませんでした。
私は姉が通っていたキーウのバレエ学校に入学。そこは世界中から留学生を迎え入れており、日本人も私以外にもう一人在籍していました。学校でバレエを学びながら、海外ツアーに出たことも。また学校では、幼少の頃から母に習っていたピアノをより専門的に学び、そのスキルを活かしてレッスン受講生のためのバレエピアニストのアルバイトをしたり、ウクライナで人気のバンドでキーボードを演奏したこともありました。余談ですが、私のアジア的ルックスが珍しがられ、アメリカの超有名シンガーのPVや、バレエのスキルを活かしたコマーシャルなどに出演させていただきました(笑)
開戦直前に撮影されたコマーシャル。松本さんを探してみてください!
裏方に活路を拓く
姉はその学校で2年間学んだ後エジプトへ渡りましたが、私は3年間学びました。そのうち最後の1年は、ダンサーとしてのスキルを磨くよりも、指導や振付を学ぶことに。それと同時に、それまで学んできたクラシックバレエだけでなく、コンテンポラリーバレエにも興味を持ち始めました。また授業で触れた旧ソ連や中東欧の民族舞踊も、その表現の豊かさから大好きになり「将来は民族舞踊団で働きたい」と思ったほど。実際に恩師のミシューチンから民族舞踊の指導も受けていたので、馴染みはあったのです。
そこで私は、卒業後の就職先として民族舞踊団を考えました。しかし自分が身長が低いこと、そしてアジア人であることが大きな壁となることを、そこに所属している人に言われたのです。一歩外へ出れば、私のアジア的ルックスがプラスに作用したにもかかわらず・・・昔、ミシューチンが私たち姉妹に「ロシアのバレエ団は、アジア人に対して門戸を閉ざしている」と言いました。それと同じ現象が、ウクライナではバレエ団ではなく民族舞踊団で起きていた。それは民族舞踊がバレエよりも体形的・ルックス的に統一性を求められるからです。
バレエ学校でダンサーとしての国家資格を得た私は、その後バレエの短大に進学。他の学校の先生のアシスタントとしてアルバイトをしながら経験を積み、短大で2年間学んだ後、指導者や振付師、バレエ団監督の国家資格を取得しました。
ダンサーとしての限界を感じ始めていた一方、アシスタントではありましたが指導の仕事に楽しさを見出した私は、表舞台を降りて裏方の道に進むことを決めました。
恩師の教えを”昔の自分”に
卒業後、私が在籍していた短大で一緒に学んでいた、元バレエ団職員で当時30代の親日家の女性から誘われ、彼女が新しく立ち上げたバレエ学校に就職しました。しかもアシスタントではなく、メイン講師です。彼女がキーウで有名なバレエ団で働いていたという背景や「国立バレエ学校に入学・編入させ、著名バレエ団に所属する道を開く」を教育方針として掲げたことから、開校当初から生徒さんが集まりました。私は指導者として、かつて埼玉でミシューチンから受けた指導を、10人弱の生徒さんに対して行いました。彼女たちは皆ギャン泣きしていましたよ(笑)でもその甲斐あって、私が勤務していた2年間で約5人の生徒さんを国立バレエ学校に入学・編入させるまでになりました。
指導者として着々と経験を重ねていた頃、私の知らないところで戦争の足音が近づいていました。2022年1月半ば頃、日本やアメリカ、カナダなど主要国の大使館から、現地に滞在する外国人に向けて退避勧告が出されたのです。
「戦争?起きるわけない」
私自身も日本大使館から頻繁にメールや電話をいただき、”第三次世界大戦”の可能性まで口にされました。しかしすぐには信じられませんでした。私の職場であるバレエ学校でも、ウクライナ人の同僚は「戦争なんて起きるわけがない」と言っていたくらいです。
それより約8年さかのぼる2014年、私より先にウクライナにバレエ留学をしていた姉は、EU加盟を巡る国内での大規模騒乱の渦中にいました。当時も日本大使館から「1~2週間はキーウ中心部に行かないように」という勧告が出ていましたが、実際はさほど危険な状況にはならなかった。それも私が今回、大使館からの呼びかけに真剣に応じていなかった要因。それにウクライナで結婚して家庭を築き、仕事をしながら暮らしている身としては、国を離れることに抵抗を感じていたのも事実です。
一昨年の初め、私はウクライナ人の旦那、そして1匹の猫と一緒にキーウ中央駅の近くに住んでいました。そこは東京で言えば八重洲や丸の内にあたる中心部。2022年2月24日朝6時、日本にいる母からの電話で私は目覚めました。
着の身着のまま首都脱出
「ついに始まったよ!」。そう叫ぶ母に私は「何が?」。それくらい現実味が無かったのです。しかししばらくしてふと我に返り「起きるわけが無い」と誰もが思っていた戦争が、実際に起きてしまったことへの恐怖と、大使館からの呼びかけに応じなかったことへの後悔の念に襲われました。それらを振り切るように「私は絶対に死なない。絶対に生き延びてやる!」と強く誓いました。
開戦当日は平穏だった街の中心部。しかし翌25日には自宅からも爆撃音や銃声が聞こえるようになり、部屋の窓ガラスにガムテープを貼って割れないようにしたほど。「このままでは危ない」と思った私たちは、キーウから約530キロ離れた、私の友達が住むウクライナ西部の街リヴィウに逃げることにしました。
「リヴィウ行きの列車が17時ごろ中央駅を出発する」- そう友達から聞いたのが同日16時。1時間では荷物をまとめることなどできるはずもなく、本当に”着の身着のまま”、その時着ていた服のまま、パスポートや財布、携帯電話、パソコンを小さなリュックに詰め込んで、中央駅に向かいました。
駅に着くと、構内は人であふれ返っていました。17時発の列車は見送らざるを得ず、その後に来た列車にも乗れない状況に。誤って子どもだけが列車に乗ってしまい「ママー!」と叫ぶも、成すすべなく途方に暮れる母親がいたり、駅構内でざわつく人たちを鎮めるために警察官が天井に向かって銃を発砲したり・・・映画でしか見たことがない光景が、緊急事態を知らせるサイレンが鳴り響く中で繰り広げられていました。
列車を3本見送り「もし4本目に乗れなかったらキーウに残ろう」と、私の旦那や、一緒に西へ向かうことになった私の友達と話し合いました。しかし次に来た列車に、私たち3人と1匹の猫が運良く乗車。4人用の客室に20人近くもの人たちが入り、通路にも人々があふれる寝台列車は、一路リヴィウに向かって走っていきました。
国境まで2キロ
出発から6~7時間が経ち、列車はリヴィウに到着。ポーランド国境まで約80キロにまで迫るその街なら安全だろうという私たちの期待に反して、キーウと同じようにサイレンが鳴っていました。落ち着かない気持ちを抱えながら、私たちは友達の家へ。しばらくそちらに滞在させていただく予定でしたが、予想以上にリヴィウが危険であることを感じ、別の場所への移動を強いられました。
ちょうどその時、ある人から連絡が届きました。私の親友の日本人女性と結婚したウクライナ人男性からです。彼の実家はスロバキア国境からわずか2キロの場所にあるウジュホロドという街にあり「家に来ていいよ」と言ってくれたのです。そこは一戸建てだから長居しても良い、と。私たちはリヴィウを離れ、私が仲良くしていたキーウ駐在日本人商社マンの部下の方が手配してくれた車に乗り、約250キロ南西に位置する国境の街ウジュホロドへ。通常なら4時間程度で着くところを、同じ方向へと避難する車で道路が渋滞していたため10時間以上かかりました。それでも国境を越えようと3~4日間車中泊した人たちに比べれば、早く到着できたと思います。
私の親友はすでに隣国のハンガリーに避難していたものの、ウジュホロドは予想通り安全な街でした。しかしそれも束の間、到着の約1ヶ月後には、その街でもサイレンが鳴り響くようになったのです。キーウで聞いた、緊急事態を知らせるものでは無く、敵方の戦闘機の上空通過を警告するものではありましたが、やがてサイレンそのものが私にとってトラウマになり、眠れなくなりました。それは日本帰国後も続き、夏を迎えた頃には花火がサイレンを思い起こさせたほどでした。
大切な人たちのもとへ
再び退避の必要に迫られた私は、ついに日本への帰国を決意。3月17日、親友の招きでウジュホロドからハンガリーへバスで移動しました。道中は渋滞がほとんど無かったものの、国境を越える時に難題が発生。車内にいた3~4人の赤ちゃんや、爆撃で家を無くしパスポートも消えてしまった家族のために臨時のパスポートを作る必要が生じ、通常なら30分~1時間程度で国境を越えられるところが、10時間近くも足止めを食らったのです。ようやく国境を越え、ハンガリーの首都ブダペストの鉄道駅に到着。そこで親友に再会し、彼女のご自宅に2~3日滞在させてもらいました。
ここまでお読みの皆さんは、疑問に感じられるかもしれません。「旦那さんは、どうなったの?」
2月24日の開戦後、日付が25日に変わって間もない午前1時、ウクライナのゼレンスキー大統領が徴兵令を発令しました。それまでに国境を越えて隣国へ移った男性は、全て徴兵を免れます。しかし2月25日午前1時を境に、ウクライナ国内に居住する18歳~60歳の男性は国外へ出ることを禁じられたのです。その時、旦那は私や私の友人とキーウの自宅におり、部屋の窓際にいると爆撃音で寝られなかったため、部屋と部屋をつなぐ通路に身を潜めていました。発令の報道をテレビで見た旦那は「ついに出ちゃったね」と一言。私はその意味が分からず「何が出たの?」。彼は自分が徴兵令に従わざるを得なくなった現実を、私に伝えたのです。
「もし私が日本に帰ったら、永遠にウクライナに戻れないのでは?旦那にも永遠に会えないのでは?」その思いがあったから、母国に帰ることを躊躇していました。しかしこれ以上、両親を心配させることはできなかった。彼らは戦火の真っ只中にいる私を心配するあまり、発狂寸前の状況。だからハンガリーに脱出しました。でもウクライナに留まることができないのなら、両親を安心させ、自分も不安を感じずに過ごすために日本に帰るべきだ、と。それは私だけでなく、旦那の思いでもありました。
2~3ヶ月日本に滞在した後、再びウクライナに帰るんだ – その決意と希望を胸に日本行きのエアチケットを購入。親友に別れを告げ、ハンガリーからスイス経由で成田へと飛びました。
いつか必ず戻る 愛すべき場所に
「戦争、早く終われ!」と心の底から思います。その一方で、私がウクライナに渡った2015年当時は全く考えもしなかった日本への帰国は、戦争が起きたことがきっかけでなされたことだし、今年2月まで2年近く関わってきたウクライナ避難民支援は、日本にいなければ従事できなかったこと。だから、気持ちは複雑ですね。
「なぜ日本でバレエ関係の仕事をしないの?」と、帰国してから頻繁に聞かれます。でもそれは、先ほど言ったように日本ではバレエで生計を立てることができないからだし、この国ではバレエへは”裕福な家の子の習い事”のように扱われているから。バレエ公演の入場料が高いのはそのためです。私は習い事にはお付き合いしてこなかったし、これからもするつもりはありません。だから日本では、バレエ以外の世界に触れているのです。
繰り返しになりますが、早く戦争が終結してほしい。それまでの間、私は日本で自分ができることを精一杯やる。そして戦火が止んだら、私はウクライナに戻りたい。自分の目でその後の状況を確かめながら、再び指導者としてバレエダンサーの育成に取り組みたいと思います。
やがていつか、本当にいつになるか分からないけど、苦しんでいる人がいない世界で暮らせるようになる – それが私の心からの願いです。
※My Eyes Tokyoの協力のもと、日本で活躍する外国にルーツを持つ方々や、世界で活躍する日本人の方へのインタビューを紹介しています。
https://www.myeyestokyo.jp/62707
https://www.myeyestokyo.jp/62708