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【インタビュー:多文化をチカラに㊱】ヴィジャヤサンカラン ヴィノドさん(映画監督)2024.04.26 |
ささいな理由で始めた日本語の勉強が、僕の夢への道を開いてくれた。その夢を今、僕は世界へと羽ばたかせていきます。
先に引き続き”MET長年の友人シリーズ”です。今回ご紹介するのは、映画の国として知られるインドからやってきた映画監督、ヴィジャヤサンカラン ヴィノドさんです。
ヴィノドさんとは約7年前、LinkedInのメッセージを通じて知り合いました。私たちのある記事を読まれた後、彼は私たちの活動に興味を持ってくれたのです。当時から彼は映画制作に取り組んでおり、私たちとのコラボをご提案されました。
その後彼と何度かお会いした後、しばらく音信不通に。そして昨年夏、あるプロジェクトへのご協力をお願いするために彼に声をかけ、再び繋がりを取り戻した私たちは、ついにヴィノドさんとのインタビューを実現。お会いしていなかった間に、彼はIKEAやZARAといった世界的な企業のコマーシャルを手がける映画監督へと成長していたのです。
注目すべきは、ヴィノドさんの映像作品だけではありません。彼の英語力です。アメリカには一度も行ったことがないにもかかわらず、ヴィノドさんの口から出てくるのはまさにアメリカ英語。彼の言語と映像制作のスキルの根っこが同じであることは知っていましたが、このインタビューではそれらについて深堀すると共に、彼が日本に来た理由や、日本でのキャリア構築、そして日本以外での国で追い求めるチャンスや夢についてお聞きしました。
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勤め人とフリーランスの両輪でスキルアップ
僕は会社に勤めながら、フリーランスとしても働いています。会社では編集マンとして、SNSで流す動画の編集や、CMの撮影・編集をし、それ以外には社内用ビデオを作ったり、視聴テスト動画を撮ったりしています。モーショングラフィックス(※テキストや画像、アニメーションなどを組み合わせて動画やアニメーションを制作するデザイン分野の一つ)を入れたり、音声をミックスしたり、字幕を入れたりすることもありますね。あとソーシャルメディア用の短縮動画も作ります。一方でフリーランスとして仕事をする時は、新しいことが学べたり、自分にとって興味が湧いたりする案件を選んでいます。特に好きなのは、学びがたくさんある大規模な制作現場ですね。昨年(2023年)フリーランスとして何本か監督をさせていただいたところ、会社の同僚が僕の仕事を見てくれていて、会社から演出を任されるようになりました。
現在は、フリーランスでディレクターと撮影監督を兼任しながら、会社では演出、撮影、編集を担当しています。フリーランスの仕事では編集を敢えてやらないようにしていますが、それはすでに会社でそれができているから。会社での立場を第一に考え、フリーランスとして活動する際は、新たなクリエイティブな道を模索し、いろんな方法でプロジェクトに挑戦することを心がけています。
僕が日本に来たのは2017年1月で、今からちょうど7年前。でもまるで10年日本にいたかのように感じます。それより短くは感じないですね。
英語漬けの日々 映画漬けの日々
僕の生まれはインドではありません。父の仕事の関係で、中東のバーレーンで生まれました。バーレーンは世界に開かれた国で、そのため英語が広く話されています。インドに移ってからも、毎年夏休みには中東を訪れていました。幼少期を通じて、僕は英語のアニメや映画、テレビドラマをたくさん見、英語の本も読みました。もうすっかり英語が母国語になって、しかも僕はヒンディー語があまり話せないので、今インドに帰っても馴染めないかもしれません。
バーレーンから帰国後、僕は南インドのケララ州で育ちました。僕の母国語はマラヤーラム語です。北インドではヒンディー語が一般的なのに対し、南インドではマラヤーラム語が主に話されています。インドの学校では他の言語とともに英語も教科にあったので、14歳か15歳のときに英語を本格的に勉強し始めたのをはっきりと覚えています。読書好きが幸いし、僕は英語、特に読み書きが得意でした。ちょうどその頃、僕の家にもブロードバンドが引かれ、ネットの速度がスピードアップ。僕はボリウッド映画を見る代わりに『となりのサインフェルド』のようなテレビ番組に夢中になり、それらで英語を学びました。
時々、欧米の国々がインド英語をどのように受け止めているかという議論に出くわします。僕が子どもの頃は気になったものですが、今はそれほど気になりません。でも当時、僕は自分の英語をからかわれたくない一心で、テレビ番組のセリフを繰り返してアメリカ英語を真似するように。一人で何度も練習するうちに、僕はアメリカ英語を身につけました。やがて僕はそれに慣れ、自分の英語にインドのアクセントが聞こえなくなりました。特に英語のテレビ番組ばかり見ていたので、まるでアメリカに住んでいるような気分だった。今では、英語を話す環境が自分にとって一番居心地良いくらいです。
父の教えに背く
たくさんの映画を見て育った僕は、やがて映画製作に興味を持つように。だから映画学校に行きたかったのですが、父は「家計に余裕がない」と言いました。それに父は、映画でお金を稼げるかどうかも疑っていました。もし僕が映画学校に行ったら、映画製作以外には活用できない映画の学位を取得して卒業することになるのではないかと心配していたのです。長い間映画製作を志しながらも、映画学校に通う資金が無かった僕にとって、これは切実な問題でした。
映画学校に入る代わりに、僕は北インドにあるビジネススクールに入学。全然違う環境ですよね。僕はそこで、編集や映像制作とは無関係のビジネスを専攻したものの、映像制作に携わりたいという思いだけは持ち続けていました。
入学してから最初の1週間のことを、今でもはっきり覚えています。首都デリーではほとんどの人がヒンディー語を話す一方、僕は英語しか話せなかったから、みんな僕がインド出身とは思わなかった。僕がどこかのお金持ちで、インド人ではないと思い、僕と話したがる人もいたくらい(笑)。おそらく彼らは、僕が自分のルーツを再確認するために海外からインドに戻ったと思ったのでしょう。学生時代には、YouTubeのチュートリアル動画でAfter Effectsの使い方を独学。ちなみにAfter Effectsは厳密には映像編集ソフトではなく、モーショングラフィックス・アニメーションを作るためのソフトです。
徐々にAdobe Premiereという動画編集ソフトも勉強し始め、その後カメラを買い、友人たちといろいろなものを撮るように。でもカメラの正しい使い方を知らなかったので、撮影はうまくいきませんでした。
秘密の言葉
ビジネススクールで僕は日本語の勉強を始め、4年間続けました。その学校では、在校生全員が追加で学ぶ言語を選択することになっており、ほとんどの人がフランス語やドイツ語、スペイン語、中国語を選びました。でも僕は日本語を勉強したいとずっと思っていました。インドではあまり使うシーンがありませんが、面白そうだと思っていたからです。アニメや日本の映画はあまり観なかったし、日本語で観たいとも思わなかった。でもほぼ日本でしか通じない”秘密の言葉”である日本語を知りたいと思うようになったのです。
実際には、授業は月に2回、1回2時間か4時間しかありませんでした。そのため上達速度は遅く、大学を卒業する頃になっても僕の日本語能力は全くの基礎レベルに留まっていました。ほとんど話すことができず、日常会話レベル以下。漢字やひらがな・カタカナがいくつか分かる程度で、単語も覚えてはいたけど、実用的と呼べるレベルには至りませんでした。
日本に来る予定もありませんでした。しかし大学卒業の2年前、日本語を学ぶインドの大学の学生100人に2週間日本を訪問するチャンスを提供するという日印両政府主催のプログラムがありました。それまでは、住んでみたい場所どころか、訪れたい場所のリストにも入っていなかった日本に、そのプログラムで僕は2014年に初訪問。インド国内や中東以外の場所に初めて行ったその旅は、信じられないほど刺激的でした。
僕は山形県に1週間滞在し、さらに1週間東京へ。そこで僕は授業に出席しながら他の学生と交流し、伝統的な日本の家で日本人のホストファミリーと生活。日本はインドとは大きく違い、また多くの点で正反対だと思いました。食事とテクノロジーを堪能しつつ、その環境をめちゃくちゃ楽しみました。
そしてインドに戻った後、僕は日本に移住することを決めました。
映画への情熱を携え日本へ
僕は日本での就職活動をメールで開始。大学で学んだマーケティングの知識を活かす仕事に就くため、いろんな企業に100通のメールを送りました。僕はMBAを持っていたので、これが一番簡単な道だと信じていました。望みは薄かったかもしれないけど、まずは日本に来て、何とかして映画製作に携わる方法を模索しようと考えたのです。
結果的にその戦略は成功。100通のメールのうち、返事をくれたのは2社だけでしたが、うち1社から面接に呼ばれました。そしてその会社に内定し、会社が提供するインターンシップ・プログラムにデリーからオンラインで参加することになったのです。そこはSaaS(※Software as a Serviceの略。サーバーで稼働しているソフトウェアをインターネットなどのネットワーク経由で、利用者がサービスとして利用する状況)の会社で、Google Driveに似た製品を提供していました。
東京に来てからの最初の1年間は、経済面で苦労しました。港区にあるシェアハウスで8人のルームメイトと暮らしましたが、それでも家賃が給料の半分を占めるという状況。あとは近所のスーパーでお弁当を買ったり、自炊をしたりしてしのぎました。大変でしたが、来日後2~3カ月はそこで勤務。しかし残念ながら、僕が働いていた間に経営上の問題で倒産してしまったのです。
別の道を探す必要に迫られた僕は、映像制作の仕事を始めることを決意。最初は無料で動画を作ることから始めました。イベントを収録して編集し、その動画をイベント主催者に無償で提供。この作業を2~3回繰り返した後、自分の作品を紹介するウェブサイトをオープン。モーション・グラフィックスのアニメーションもいくつか作り、僕のポートフォリオに加えました。その後、東京のプロダクション数社に連絡を取り、うち1社から返事をゲット。そこはIQOSという加熱式タバコや電子タバコのプロジェクトに携わっており、モーショングラフィックスを必要としていたのです。僕はフリーランサーとして彼らのもとで仕事をし、そこでついに報酬を得ることができました。
ある日、インドの大学在学中に日本でのインターンシップ先を探していたときに知り合った、インターンシップ主催者であるドイツ人女性、ホップ・ヴェレナさんからあるイベントに誘われました。撮影のご依頼は無かったものの、とにかくカメラを回しました。その映像を編集してヴェレナさんとシェアし、僕のポートフォリオに加えました。そのイベントで、僕はチャールズ・スチュワートさんという人に出会います。彼はアメリカ出身で、現在は日本酒や焼酎のプロモーションに積極的に関わっています。ヴェレナさんの友人である彼は、日本酒造組合中央会向けに、特に日本酒に関する動画をもっとたくさん作りたいと考えていました。彼は、僕のウェブサイトに載せたイベント動画をご覧になってすぐに、僕が動画制作に興味を持っていることを思い出し、連絡をくれました。
チャールズさんは、アニメーション制作のアシスタントを必要としていた別のビデオ制作会社に私をつないでくれました。その会社にはアメリカ人のディレクターと、同じくアメリカ人の営業担当のビジネスマン、そして日本人の翻訳者がいました。前任の編集者も撮影者もいなくなったということで、僕を雇ってくれたのです。そこに僕は1年半勤務し、撮影と編集の経験を積みました。その間、プロデューサーとして映画の世界で活躍する日本人女性に出会ったのです。
ついに、映画へ
その女性は、映画制作スタッフとして僕を採用。彼女が作る映画は、それぞれの業務に専属のスタッフがつく大規模なものでした。カメラアシスタント、撮影監督、照明セッティング担当などが、全て分かれていたのです。
当初僕はフリーランスとして、バッテリーを交換したり、機材を車に積んだりといった単純作業をこなしていました。撮影や編集のスキルはあったものの、制作規模がこれまで僕が経験したものとは違うため、下っ端からのスタートとなったわけです。予算はNetflixの作品並みにありました。ポジションが上がって映画制作の部分に直接携わるようになるまで、僕はいろんな雑用をこなし、最終的にはカメラのピントを合わせたり、カメラを操作したりする仕事にまで就くことができました。さらに大がかりな現場で働けるようになるには数年かかりますが、それがこの世界での昔ながらのステップアップの道です。
これらを経て、今僕は日本語と英語のバイリンガルで業務を行う世界的な広告代理店に勤務。さらにフリーランスのディレクター兼撮影監督としても仕事を続けています。
大きな夢を世界に描く
最初の仕事に就けたのは、本当にラッキーだったと思います。この業界で仕事を見つける最も効果的な方法は、住みたい場所に実際に行って、いろんな部署やポジションで働く人たちに会うこと。映像制作に携わる外国人スタッフの多くは日本語を話せないまま日本で生活し、働いていますが、僕はある程度日本語を勉強していたことが幸いしましたね(笑)。言葉を学んでいれば、日本での暮らしが幾分心地良くなり、日常で起きる些細な不満を感じずに済むものです。
日本での仕事はもちろん楽しい。でも今年(2024年)の終わりごろ、僕はフィアンセと一緒にヨーロッパ、というかドイツに住む予定です。現在、LinkedInでドイツ、特に首都ベルリンでの求人を探しています。でも僕がチェックしたほぼすべての仕事には、英語とドイツ語の両方が話せることが求められていました。もちろんドイツ語を学ぶ気満々です。
日本であれ、ドイツであれ、他の国であれ、僕は自分の映画を作るという夢を追い続けるつもりです。具体的には劇映画やドキュメンタリーの制作ですね。僕は映像制作全般、特に劇場やNetflixのようなプラットフォームで見てもらえるような、ストーリー性のある映画の制作にもっと関わっていきたい。映画は、様々なテーマで人々とつながることができるメディアだと僕は思っています。
ヴィノドさんにとって、東京って何ですか?
”チャンスで沸騰した鍋”ですね。
僕らに与えてくれるチャンスや、出会う人々の多様性という点で、僕は東京のような場所を他に知りません。でもそれは、同時に多くの人が東京に来ては去っていくということでもあります。東京は一過性の場所であり、住み続けるのは難しい。賑やかすぎると感じて離れる人もいれば、別の場所に新たなチャンスを求める人もいる。しかし人生の4分の1を東京で過ごした僕にとって、東京は他のどの街とも違う特別な場所。ある意味、いつも故郷のように感じています。
東京が映像制作のキャリアをスタートさせるチャンスを僕に与えてくれたことを、僕は生涯感謝するでしょう。それはまさに僕がやりたかったことであり、東京はその実現のための完璧な環境を提供してくれたのです。もし僕がもう一度やり直すとしても、東京には尚も自分の情熱を追い求めるチャンスがあふれていると思います。
街の活気と、そこに住む人たちのフレンドリーさが一体となった東京は、働きたい人や成長したい人をきっと歓迎してくれるでしょう!
ヴィノドさん関連リンク
ポートフォリオ:vinodvijay.com/
【主な作品】
焼酎ドキュメンタリー:youtube.com/watch?v=FU93t7ivFtQ
IKEAソーシャル動画:instagram.com/reel/C06KGPZPm3j/
IKEA CM:instagram.com/reel/C3moio5vFWC/
ZARA子供服CM:instagram.com/p/CumLQ-MLEhL/
短編映画:youtube.com/watch?v=GN7eNQergN0
音楽PV:youtube.com/watch?v=s9Jd4WHR73Y
※My Eyes Tokyoの協力のもと、日本で活躍する外国にルーツを持つ方々へのインタビューを紹介しています。
https://www.myeyestokyo.jp/62599