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【インタビュー:多文化をチカラに㊳】横川愛作さん(通訳・司会・歌手・音楽プロデューサー)2024.09.19 |
日本人と外国人をつなぐ – そんなポジションが一番自分に合っています。
ついに、この人にお話をお聞きすることができました。
今から約2年前、2022年6月に上野公園で行われたフィリピンエキスポ。当時知り合ったばかりの”フィリピン人初の演歌歌手”ヨランダ・タシコさんが歌を披露する開会式に行きました。初めて生で聞いた彼女の歌声や”こぶし”に感動したのは言うまでもありません。しかし私たちはもうひとつ、ある存在が気になりました。
そのステージで、英語やタガログ語、日本語で場を回していた司会者です。常夏のフィリピンのような明るさで場を盛り上げるその男性は、どんな人で、どんな背景を持っているのか?そんなことを気にしながらも、時間だけが過ぎていきました。
そして2年ぶりに足を運んだ、今年6月開催のフィリピンエキスポ。開会式で歌うヨランダさんの応援に駆けつけた私たちは、再びあの司会者を目にします。
「よし、今度こそご挨拶をして、インタビューをお願いするのだ!」そう決意し、開会式が終わったタイミングで舞台裏に回った私たちは、ヨランダさんの仲介でついに司会者にご挨拶。それが、今回ご紹介する横川愛作さんです。
「面白いエピソードをお話できるか分かりませんが・・・」とご謙遜されながらも、私たちからのオファーをご快諾。フィリピンを拠点にしている横川さんとは、国境を越えたオンラインでのインタビューとなりました。
とても柔らかで穏やかな語り口からは想像できない、辛いご経験や、それらを乗り越えて最も居心地の良い場所を探されてきた姿に、またひとつ私たちは勇気づけられました。「夢を追い求め、それを掴むことは大事なこと。でも、もし夢が叶わなかったとしたら?」 – このインタビューが、もしかしたらその問いの答えになるかもしれません。
通訳 x 司会 x トライリンガル
今の僕の仕事は、90%が通訳業です。担当する業種も、今日は工場監査、明日は IT 系というふうに、毎日のように変わるので、その分勉強しなければならないことが多いですね。しかも最近では防衛にまつわる国と国の交渉といった、非常に重要な場面での通訳もさせていただくこともあり、大変なプレッシャーに襲われます。また日本で生まれ育った先輩方に比べて足りないものがあることを痛感します。それでも仕事を通じて日々新しい自分を作っていけるこの仕事が、本当に楽しいですね。
残りの10%は、ほぼ全て司会業です。例えばあるイベントで司会をやり、そのすぐ後に記者会見が開かれたら、そこで通訳をする。日本語と英語で同時に場を仕切り、合間に通訳をするようなイベントに対して、僕に司会のお声がかかる感じです。多分、フィリピンで日本語と英語の両方で司会ができる人が、今のところ2~3人しかいないからでしょうね。おかげ様でフィリピン日本商工会議所さんの設立50周年記念イベントや、ニトリさんのフィリピン初店舗オープニングイベントなど、多くの日系の企業さんや団体さんからお声がけいただいています。
38歳になった今、司会としては決して若手とは言えません。しかし40代からプロになったり、50代で活躍したりする人が多い通訳業では、僕は若い方。しかもすでにプロとして約10年の経験があるから、まだ活躍できる余力があると感じます(汗)
僕は生まれも育ちも完全にフィリピンで、一度も日本の教育を受けたことがありません。家族との会話は日本語でしたが、一歩外に出たらタガログ語や英語の環境。宣教師という両親の仕事柄、我が家を訪れる教会関係の人たちとはそれらの言語で会話していました。おまけに通っていた学校では中国語漬けだったから、アイデンティティクライシスに陥りそうになったほど(笑)僕がいろいろな言語を使うことができるのは、そんな一風変わった環境のおかげだと思います。
いじめを生んだ”歴史”
僕は宣教師の両親の元に、フィリピンのマニラ首都圏で生まれました。両親はもともと大分県中津市にある教会に所属していましたが、その教会が海外宣教活動をする中、両親はフィリピンへの宣教を行うこととなったのです。当時のフィリピンにハワイのようなイメージを抱いて行ったら、実際は全く違っていた(笑)もう40年ぐらい前の話ですが、当時両親が赴任した地域は治安が悪く、お金も無かったので質素な生活から始まったそうです。
通常、日本人の子どもたちは現地の日本人学校に行きますが、僕は両親が運営していた教会の近くにあるクリスチャンスクールに行くことに。学校は華僑の人たちが運営していたので、中国語も勉強しました。両親は、中国系の学校に僕を行かせたら、最低でも漢字ぐらいは覚えるだろうと考えていたみたいですね(笑)
しかしそこで僕は、クラスメイトたちから長く長く続くいじめを受けることになったのです。
フィリピンでは小学校で国の歴史を勉強します。スペイン軍に占領されたことや、日本軍に占領されたことにも触れられるのですが、特に日本軍がフィリピンで行ったことが、かなり細かく、しかも酷く描写されています。他にも学校行事として見学に行った、マニラにある有名な観光地”イントラムロス要塞”、別名サンチャゴ要塞では、その地下道に地元の人たちが日本兵たちに幽閉され、殺されたという説明を受けたり、そのそばにある国立博物館では、日本軍がフィリピンに対して行ったことを克明に描写した絵が展示されていたり・・・
それらの説明を一緒に聞いていたクラスメイトは、現地の華僑の子たち。でもフィリピン人としてのアイデンティティが結構強い彼らから「お前の祖先は、すごいことしてるな」と思われ、それへの仕返しみたいな感じでいじめられるようになりました。他にも中国本土出身と思われる先生が、あまり日本に対して良いイメージを持っておらず、彼らからも八つ当たりされたことも。
さらに僕は泣き虫だったから、いじめの対象になりやすかったのでしょう(汗)3歳年上のお姉ちゃんが同じ学校に通っていて、いじめられたらすぐに男勝りのお姉ちゃんに「助けて!」みたいな感じで駆け込んでいたので「ちょっとあいつをからかったらお姉ちゃんのところに行くぞ」みたいな感じで、クラスメイトから面白がられたのだと思います。
しかも僕は当時滑舌が悪く、特にタガログ語や英語を話す時、SとTの音が出せなかったので、自分の名前すらしっかりと言えなかった。それも馬鹿にされる原因のひとつだったと思います。
”己の血”に目覚める
そんな辛いいじめも、小学校の後半ぐらいには慣れました。いじめと言っても笑われる程度のものだったからかもしれません。しかし越えるべき壁はもうひとつありました – 中国語です。
僕の中国語の成績は最低レベル。授業は北京語や福建語で行われるから、先生が何を言っているのかさっぱり分からない。中国系の友人が多く、言葉も流暢だった姉が家庭教師代わりになってくれましたが、部屋に鍵をかけられ勉強させられるというスパルタ式指導(笑)おかげでギリギリの点数で卒業できました。
そんな学校生活の中で、僕の中に芽生えたものがあります。「自分は日本人なんだ」という強い意識です。
世界史の授業の一環として日本の歴史や文化について学ぶ時、僕は必ず先生から指され、質問されました。答えを誤ると先生から「日本人として恥ずかしくないのか!」と怒られる。そのような環境だったからこそ、僕は「日本人として日本の歴史や文化を学び、日本語をしっかり身につけよう」と思いました。『ドラえもん』などを通じて日本の歴史を勉強し、マンガやゲームなどで意識的に日本語に触れるようにしました。おかげで高校生の頃には一通り漢字も読めるようになりましたね(笑)
届きそう・・・でも届かない
慣れたとはいえ、いじめが辛いことには変わらず、それは僕が高校を卒業するまで続きました。保育園から高校まで全て同じ敷地にあり、全員見知った顔のまま進級や進学をするからです。だから僕は高校を卒業した後、他のクラスメイトが誰も行かないような、開校したばかりの IT 系大学に進むことを決意。パソコンやカメラが好きだった僕は、そこに行けば自分が新しいスタートを切れると思ったのです。
僕はその大学に進み、IT全般とウェブデザインについて学びました。そこではいじめは全く無く、僕の滑舌の悪さも皆受け入れてくれました。その環境が背中を押してくれたのか、僕は幼少の頃から抱いていたある夢の実現に挑戦したいと思いました。
フィリピンや日本の教会で、4歳ぐらいの頃から聖歌や子ども讃美歌を歌っていた僕は、歌手を夢見ていました。そんな僕を、周りはクスクス笑っていたものです。両親が運営していた教会の聖歌隊や、通っていたキリスト教学校の聖歌隊に所属していた時も、滑舌の悪さから、自分のパートを歌う時に周りから笑われ、先生からも「かわいそうにね」と同情される始末。僕が尊敬する、フィリピンのクリスチャンソングの歌手Gary Valencianoさんみたいになりたいと思いつつ「なれないだろうな」と諦めていました。
でも自分を受け入れてくれる環境に身を置いたおかげで、自分の中に徐々に自信が芽生え、街に出るように。フィリピンで盛んにおこなわれている、いろんなバンドに飛び入りで参加して歌う”ジャミング”を始めました。それと並行して大学でデジタルアーツを学び、将来の道としてウェブデザイナーを考えました。
しかし当時のフィリピンでは、その道は厳しかった。そこで僕は大学4年生の頃、ある決心をします。
祖国で気づいた”心地良い場所”
僕は両親を説得しました。「日本に行かせてほしい」と。そして現金わずか数万円を手に東京に行き、一人暮らしを始め、インターンを募集している会社を探しました。
しかしその当時、2006年頃の日本では、どの会社もインターンシップの募集は皆無。そんな折、偶然登録した派遣会社から紹介された渋谷にあるウェブデザイン会社が、大学側から提示されたインターンシップの条件を理解した上で、派遣社員として僕を受け入れてくれました。
やがてその会社から、海外へのアウトソーシングを担当する部署に回され、中国人のグループと一緒に仕事をするように。海外の取引先と電話やメールでやり取りしたり、英語コンテンツの制作を手伝ったりしました。それ以外の空いた時間に、僕は先輩に教えてもらいながらウェブサイト用のアニメーションを作ったり、ウェブデザインの技術を磨いたりしました。
その後、僕はフィリピンに進出する提携会社への転属を勧められました。日本で生まれ育った周りの人たちが誰も手を挙げなかった中、僕はそのオファーに喜んで応じました。それはもちろん、両親や友人がいるフィリピンの方が、ほとんど知り合いのいない東京よりも暮らしやすいという理由が大きいですが、それだけではありません。
「自分は日本人キャラじゃない」と感じたのです(笑)
フィリピンでは、人々がみんな朗らかで、仕事中に普通に歌を歌ったりするほど。それは僕も例外ではなく、職場でも無意識に歌が口から出てしまう。そのたびに上司や同僚から「横川、うるさい!」と注意されました(笑)それにフィリピンは、朝食、おやつ、昼食、おやつ、夕食と一日5回食事をする文化で、仕事をしながらモノを食べるのもよくあること。僕自身もお菓子を食べないと集中できない質なのでポリポリしていたら、周りから「仕事中に菓子食うな!」と(笑)他にも真剣に人の話を聞く時に腕を組む、”YES”や”OK”の意思表示として眉毛を上げるといったフィリピン式のボディランゲージを、そのまま日本の職場で使ってしまい、そのたびに怒られました(笑)自分がフィリピン人キャラであることを痛感しましたね。
本業だけでは生活費を賄えず、終業後に恵比寿の日高屋でアルバイトの日々。そこで僕は、一緒に働いていた中国人の方たちに、仕事で使う日本語を教えていました。次第に彼らと働くことにやり甲斐を感じるようになりましたが、その理由が分かったのです。
「僕は、外国人と日本人の間にいるのがちょうど良いのだ」と。
もし僕が”スタッフ全員日本人”という環境で仕事をしたら、きっと僕は潰れてしまう。でもそばに外国人がいたら、僕は日本人と彼らを繋ぐことができる – そんなポジションが自分に合っていることに気づいたのです。
歌のために全てを捨てる
1年ぶりに戻った、僕が生まれ育った街。現地法人で一生懸命仕事に取り組む一方、大学生の頃の趣味だったジャミングを再び始めました。しかし滑舌が悪いというコンプレックスは消えず、人前で話すことにはまだ抵抗がありました。
その頃知り合った音楽家の方に「あなたはせっかく良い声を持ってるんだから、ドクターのところに行って治したら?」と言われ、スピーチセラピストのもとに通うように。歯並びの悪さと舌の筋肉の弱さがその原因の一つであることを突き止め、約2年間その治療と克服に務めた後、大半の言葉をしっかりと喋ることができるようになりました。
僕が子どもの頃から抱えていたコンプレックスが消え、人前で話すことへの抵抗が無くなりました。歌にも熱が入るようになり、サラリーマンとして働きながら音楽活動に取り組むように。友人たちが組むバンドにゲストボーカルとして入ったり、結婚式で歌わせてもらったりしました。金銭的にはあまり稼ぎにはなりませんでしたが、歌うことへの喜びを体いっぱいに感じていました。
その一方、本業では逆風が吹き始めていました。日本のクライアントが、フィリピンよりもさらにコストの安い中国やインドに制作を発注するようになり、業績が悪化。そのためフィリピン支社を閉めることになったのです。僕は「日本に戻って来い」と本社から言われましたが「フィリピンでやりたいことがあるので、ここに残ります」と言って退社。安定を捨てて夢を追う、無謀な人生が始まりました。
一度はつかんだ夢
そんな僕のもとへビッグニュースが飛び込んできました。何とアルバム製作のオファーがレコード会社から来たのです。当時25歳。遅いデビューではありましたが、プロの歌手になるという夢を、ついに手にした瞬間でした。
徳永英明『最後の言い訳』のタガログ語版『IKAW PA RIN』などを収録したデビューアルバム。
※ダウンロード:Apple Music タワーレコード Spotify
しかし人生とは、そんなに甘いものではなかったようです。子どもの頃から親に通訳役を頼まれ、大学時代もアルバイトで通訳に従事したことから、通訳兼歌手として2年間活動。僕はタガログ語でも英語でも日本語でも歌えることがアドバンテージになると思っていました。しかし音楽の世界は一筋縄では行かず、やがて歌手業がメインでの生活が苦しくなり、止むなく音楽活動の頻度を少し落とすことに。平日は日本語でのカスタマーサポート業務に就き、終業後や週末に歌や通訳の仕事を入れました。
少しでも暮らしを楽にするために就いたカスタマーサポートの仕事。それはある恩恵を僕にもたらしてくれました。敬語を含めた僕の日本語スキルが飛躍的に伸び、電話口にいるクレーマーの感情を落ち着かせる技を身につけたのです(笑)しかも歌手業では歌以上にトークスキルが重要視されました。余談ですが、これらの経験がその後の僕の司会業に大いに役立つことになります。
マルチリンガルで歌え、トークも上手 – それを武器に僕は歌手として階段を駆け上る・・・はずでした。
しかし本業と歌手業を両立させようと休みなく働いた結果、体調を崩し入院。フィリピンは治療費や入院費が非常に高く、僕は絶望の淵に立たされました。そんな中僕のお見舞いにいらしてくれた、当時通訳のアルバイトでお世話になったクライアントに率直に心境を伝えたところ「愛作は歌も良いけど、通訳の方が世のために貢献できると思うよ」とおっしゃいました。しかも僕だけでは到底支払いきれない入院費まで負担してくださったのです。僕は「我がままに夢を追うより、通訳として彼らに恩返しをしよう」と決意しました。
後進に夢を託す
それ以来僕は、現在に至るまで通訳業をメインに活動してきました。そのほか司会業が約10%を占める一方、歌手業は1%にも満たない程度です。でも未だ僕に歌の仕事は舞い込んできます。それらを自分では受けず、別の人に託しているのです。
シャルラ・セリレスという18歳の女の子がいます。この子がとても歌が上手で、僕が歌手として活動していた頃、まだ小さかった彼女はテレビの歌コンテストに出ていました。その後僕が審査員をさせていただいていた、アニメソングとコスプレのコンテストで実際に出会いました。日本語でとても上手に歌うので、僕が「あなたは日本人ですか?」と聞いたら「フィリピン人です。でも日本が大好きなので、歌詞の意味を覚えて歌っています」と。
フィリピンで最高視聴率58%を記録した『超電磁マシーン ボルテスV』や、『ドラえもん』『ドラゴンボールZ』『スラムダンク』など日本でも大人気のアニメの主題歌を、シャルラさんが日本語で熱唱!
僕は感動しました。マネージャー代わりだった彼女のお父さんと仲良くなり、僕が歌のイベントに出る時に、彼女も一緒に出てもらったりしていました。しかも本来僕が歌うはずだった日系企業のイベントに、彼女を連れて行ったらクライアントさんが喜んで、僕ではなく彼女に歌ってもらうようお願いされました(笑)
このとき悟ったのです。僕は歌の世界ではもうおじさんだけど、彼女はこれからスタートできる。だから自分に来る仕事を彼女に任せれば、彼女のためにもなるし、僕自身のためにもなるのではないか・・・
そんな折、僕はフィリピンで放送されている、超有名アニメの主題歌のプロデュースを手がけることになったのです。
”天才少女”と挑む一大プロジェクト
それは、日本でも海外でも大人気の『ドラえもん』。コミック版を出版し、アニメ版の企画・制作を行う小学館さんが、フィリピンを代表するテレビ局”ABS-CBN”と提携して放送していますが、その新バージョンを放映する際、主題歌をタガログ語にしたいという小学館さんのご意向があり、現地の担当者さんから僕に連絡が入りました。その当時、僕が趣味でフィリピンの歌を日本語に訳して歌う動画をアップしていましたが、その一つがインターネットでバズり、それを見た彼らが僕に「ぜひタガログ語版の主題歌を作り、歌ってほしい」とご依頼されました。ドラえもんが大好きな僕にとって、夢のような話でした。
しかしその曲は、日本ではmaoさんという女性歌手が歌っていました。「男性がこの歌を歌ったら、歌のイメージが変わってしまうのではないか・・・」。
そこで僕は考えました。これを14~15歳(当時)のシャルラが歌えば、歌のイメージは変わることなく、現地の人たちにも受け入れられやすくなるだろう – 僕は歌詞の翻訳のみ請け負い、デモ音源をシャルラに歌ってもらうことにしました。
ただ翻訳は難航しました。主題歌の日本語タイトル『夢をかなえてドラえもん』をタガログ語に直訳すると、非常に厄介なことになります。まず”かなえる”という言葉は”祈る”という意味になり、その”祈る”対象がドラえもんになる。「何か必要なものがあったら、ドラえもんにお願いすればその望みを叶えてくれるよ」という内容は、キリスト教国であるフィリピンにはふさわしくありません。
そこで僕は小学館さんに提案しました。「”ドラえもんと一緒にいれば、自分の人生がもっと楽しくなるよ”という内容に変えても良いですか?」。彼らからご承諾をいただいて翻訳をし、その歌詞をデモ音源としてシャルラに歌ってもらったところ「この子の歌声は、まさに主題歌にぴったりだ!」と小学館さんに感激されました。ちょうどドラえもんを放送していたABS-CBNの歌コンテストに出ていた縁で、テレビ局側も彼女が歌うことを承諾。こうしてシャルラが歌うドラえもんの主題歌が生まれました。
横川さんが日本語からタガログ語に翻訳し、シャルラさんが歌う『夢をかなえてドラえもん』。曲名も「不思議なポケット」を意味する”Mahiwagang Bulsa”となった。
”地上にいる時間”を大切に
通訳の仕事では、様々な分野について勉強しながら、失敗のないように努めています。司会業については、自分より上手な人はたくさんいますし、まして僕の声は男性にしては高いから、少し幼稚な印象を与えてしまうかもしれません。でも、この素の声の方が自分の伝えたいことがしっかり伝わる。だから今自分が持っているもので、人に伝えられるように努力や工夫をすることを心がけています。通訳業と司会業のスキルをさらに磨き上げないと、歌での挫折の二の舞になってしまう – そのような危機感を持ちながら、一つ一つの仕事に臨んでいます。
歌に専念していた頃、生活が苦しく、経済的に両親や姉のお世話になりましたが、今、少しずつ恩返しができている。だから今すごく幸せですし、このような自分になったことを、僕以上に両親が喜んでいます。
僕自身は今も昔もフィリピンに拠点を置いていますが、2ヶ月おきに日本にいる両親を訪ねています。フィリピンには親を大事にする文化がある。だから僕も”地上にいる時間”は、できるだけ両親との時間を大切にしたいと思っています。
横川さんにとって、日本って何ですか?
何もかも揃っていて、便利で楽しい場所。でも自分の求めているものは、それではない。
僕はかつて日本に憧れ、東京で仕事をしましたが、家族がそばにいない寂しさを味わいました。その後フィリピンに戻り、家族との時間の大切さを身に染みて感じました。今は両親は療養のため日本に戻っており、僕も日本に帰ることが多くなりましたが、要は「どこに家族がいるか」が大事だと思います。多分それは、皆誰もが同じで、家族で無くとも自分にとって大事な人がいれば、きっとその場所がベストなのだろうと思います。
横川さんにとって、フィリピンって何ですか?
良い意味でも悪い意味でもポジティブな国ですね(笑)
右も左もドラマだらけ。フィリピン人は、人生がドラマそのものですね。国民の平均寿命が60歳代ととても短いですが、その分、愛情表現がストレートで精神も強く、ちょっとしたことではくじけません。実際、大洪水が起きたら泳ぐくらいしたたかです。必死に生きている人々の姿を目の前のあたりにするたび「自分も頑張らないと!」と思いますね。
そんな逞しいフィリピン人たちに学び「人生、どうにかなるよ!」という彼らの言葉を胸に刻んで、悔いの無いように生きていこうと思います。
横川さん関連リンク
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※My Eyes Tokyoの協力のもと、日本で活躍する外国にルーツを持つ方々へのインタビューを紹介しています。
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