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本の紹介 倉持麟太郎著『リベラルの敵はリベラルにあり』2020.10.25 |
今回は本の紹介をします。著書の倉持麟太郎さんは皆さんご存知ですか?
TOKYO MXの『モーニングCROSS』内で日替わりのコメンテーターとして出演されているのをはじめ、メディアにもよく出ておられますが、何より2017年9月に山尾志桜里衆議院議員との不倫疑惑が報道されたことで記憶されている方が多いのではないでしょうか。
実際に不倫関係があったかどうかはさておき、山尾議員が民進党→立憲民主党→国民民主党と移ってきた考え方のバックグラウンドはこの本を読むと良くわかると思います(倉持氏は山尾議員の政策顧問を務めています)。
刺激的なタイトルは、2015年に出版された法哲学者・井上達夫さんの『リベラルのことは嫌いでも、リベラリズムは嫌いにならないでください』を思い出します。実際、本書の中でも筆者が挙げる影響を受けた大先輩3人の中に、井上達夫さんは入っています。
さて基本的な本書の構成としては、個々人の人権や尊厳をベースとするリベラルの価値観や考え方には基づきつつも、リベラルが語る社会設計には現実味がなく、さらに「上から目線」であるため、生活者に届いていないという現状認識から出発します。
その原因は、リベラルな社会の基礎単位である「個人(individual)」概念が現実の生身の個人と乖離しすぎていると筆者は指摘します。この辺りは、1970年代のリベラリストのロールズと、コミュニタリアンのサンデルの論争が下敷きにあるのかもしれません。
そして、既存の「民主主義」のオルタナティブ(代替案)としての「法の支配」、そして選挙以外の多様な(旧来の市民運動に縛られない)社会参画の形を模索する「カウンター・デモクラシー」を提案しています。
リベラルな論客の倉持氏ですが、「ナショナル・アイデンティティによる包摂」についても言及しており、この辺りは小林よしのり氏(上記の大先輩の3人のうち一人)の影響なのでしょう。
本書の中で、「我々の国家・社会を溶解させ、深刻な分断を制御できなくなり、いくつかの病理現象を生み出した」(15頁)原因の第一番目に、「アイデンティティの政治」を挙げています。これまで繰り返し述べてきた「アイデンティティ・ベースド・コンフリクト」の現状とその原因、そしてその解決策に通じるものがあるので、それをいくつか紹介させていただきます。(引用は太字)
不安感と孤独感は、その裏返しとして、強い公的承認をセラピー的に求めた。「強い個人」から落ちこぼれた「生身の個人」が求めたセラピーは、民族や土地や言葉等という直截的な統合(ナショナリズム)か、自分をふるい落とした人々が座るエリートの説教台を「既得権益」として徹底的に敵視しその打破を目指す(ポピュリズム)か、あるいは社会の周縁における少数疎外者と感じる集団で結集する(アイデンティティ・リベラリズム)という形で表出した。そして、セラピーにすら無力感を感じる大多数は政治的無関心=ニヒリズムへと染まっていったのである。(16頁)
特にリベラルが、外国人・LGBT・DV被害者…等の個別の「当事者」向けの政策や特別の配慮を求めることには熱心でも、統合的なビジョンを提示していないが故に広範な支持を得られないのではないかと指摘しています。それを筆者は「配慮より、ビジョンを」と訴えます。
そして筆者は、社会の分断を乗り越えていく(利害調整をしていく)ために必要なのは「公徳心」と「普遍性」だと強調します。
すなわち、広く皆に関わる事柄についての討議に参加し、他者を独立した人格として認め、頭ごなしに否定せず、私欲ではなく公益のために思考すること(公徳心)。そして、自分という個別具体的な「当事者」にしか通じない「物語」ではなく、自分を超えて他者と広く共有できる価値=共通言語を尊重するということ(普遍性)である。(78頁~79頁)
公徳心や普遍性のベースとして筆者が取り上げるのが、哲学の祖であるソクラテスの提唱した「テューモス(thymos)」です。これは、気概(spirit)とも言い、欲望や理性とは異なる一種の「気高さ」です。そして、これはすべての人が持つ魂の核なのです。
GPFのいう「One Family under God」のビジョンの「under God」の説明としていかがでしょう。